馬鹿正直ってムズカシクないですか?
友人がSNSへの投稿で「馬鹿正直」という言葉を使っていて、いや別にその方の文脈をきちんと押さえて言うわけではないのですが、思う所あり、書いてみたいと思います。
*
幼い頃の記憶で、何について言われたかは覚えていませんが、父に、「おまえそれはな、馬鹿正直って言うんだぞ」と、何かについて「怒られた」ような記憶があります。
たぶん「馬鹿正直?って?何?」という思いだったと思いますが、「えっ、〈正直〉って、いいことじゃないの?」という思いがあったように思います。
たぶんこれには混乱し、最終的には、何で怒られるのか、たぶん、わからなかったと思います。
ときには嘘をつけということだろうか? 言葉なり、人のことなり、あまり信用し過ぎてはいけないということだろうか?
さて、「この問題」は、実は、今でも解けていない気がします。「馬鹿正直」って何でしょう?
*
おそらくはこういうことかなと思うのは、昨今の言い方で言うと、「空気を読め」ということかなと思います。「言われた通り」のことではないことや、「言われていないこと」について、その場合にはこうだ、ということが、たぶんある。それが「空気」と言われたりして、それを「読む」ことが大事になる。
「この問題」って、ちゃんと考えようとすると、たぶん、難しい問題ですよね? どうなんでしょうか?
*
何らの解答を出せるわけでもないですが、二つのことを対照させて、結んでいきたいと思います。「馬鹿正直」をどう考えるべきか? (あるいは「空気」とやらをどう考えるべきか?) 馬鹿正直は(空気が読めないのは)いけないこと?
――という問いが基礎となるような、そういうものへの対処の仕方について。
一つあるのは、馬鹿正直だとか言われることを避けるという前提で、「適当にやる」「うまくやる」ということ。もちろん、これらは、何ら具体的な解法は提供しない、本質的に曖昧な回答なんだと思います。「空気」が曖昧な存在であるのと同様に。
もう一つ、もっと「徹底的に馬鹿正直になる」とでも言えるような対処の仕方がないでしょうか。そこで「正直」が「馬鹿」と言われるのはどうしてか? そこにある「空気」とされるものの正体は何か? 「適当」や「うまく」というのは、実の所、何をやっているのか? ということを徹底して探ってみる、というようなことです。
後者の道は「哲学」を好むような人は好むような道かもしれませんが、しかし、この道は、おそらく、時間がかかる。なので、実際の場面では「適当」にやる要領をも学びつつ(いやしかしまさにそれが得体が知れないわけですが)、ちょっと時間のあるときにその「適当」やらを分析してやるのが実際的かもしれません。
*
この分析に、一人で考察を練るだけでなく、「対話」をも入れてやれるといいよなーなどと考えたりします。
実際の所、「適当」にやってる人も、おそらく何かを「知って」はいないので――知らずに何かをするという技法が「要領」や「適当」と言われる、……すごいよね……!! ――そこであなたは何を知っているの? 何を知らないの? ということを〈うまく〉尋ねることができれば、あっやっぱり、君も知らないんだよね? ということがわかったりすることが、ある気がします。もちろんこれもそうストレートに聞けなかったりもするかもしれないのが、またアレですが…
でも意外と、素直に聞くと、素直に「わかんない」って答えが返ってきたりすることもあるような印象もあります。
単に自分で「敵」を大きくしちゃってる場合も、たぶん、あるのではないかと…
*
父には(とはいえもう亡くなっているので聞けませんが)、子供に馬鹿正直って、どーなん? と言ってみたかったかもしれないです。
*
あ、最後に一言(と言いつつ書いたら案の定もうちょい伸びた)。
上で出てきた「適当にやる」「うまくやる」、こういうのは広い意味での「政治(性)」の問題なんでは、と思います。この場合に考えてる「政治(性)」は「国家や社会の統治」という意味とは全然違う、言うなれば、おそらくは、「個人」の身体の動かし方や心の持ち方におけるその生活や生の「統治」の意味です。
こう考えるのは「もっと徹底的に馬鹿正直になる」方向性――つまり「哲学」だと思っていますが…――でのことで、もちろん実際面で役に立つにはちょっと時間がかか(り過ぎ)る行き方かもしれませんが……
(あ、でも、瞑想はこの「個人」における「統治」の問題の解決を直接に目指すものかも…… 宗教一般も、そうかな……? ちがうかな……)
頽廃と全体性
頽廃というのは興味深い現象だと思う。
先には組織内におけるその現象について書いていたが(当ブログ「母と話す、二つの症候について」)、狭く一組織内の現象としてではなく、より広い文化的事象としてもあるだろう。その場合、その事象を成り立たせるための要件とは何だろうか。
*
先の「組織論的」考察によれば、その現象が起きるのは、「内」がそれだけで自己完結しているかのように〈見なされる〉場合、すなわち、「外」との「交流」に対して盲目になる場合であった。ここで〈見なされる〉としたのは、おそらく、現実的には、「外との交流」はあらずもがなのことであり、すなわち、実際には「ある」のである。ただ、例えば組織が大きくなれば、その「中」しか見えなくなることが可能になり、そのような観点からは、あたかも組織なりその中にいる個人なりが、「外」から離れ、自己完結的に存続することが可能なように「錯覚」されるのである。
さて、このことを広く社会・文化的な事象としての頽廃に類比的に適用するとするならば、どうなるか。
類比から言えば、それは「外」が〈見えなくなる〉事象のことである。しかし、違いは、一組織という自明に「狭い」領域に限った話でなく、社会という「極大的」な領域の話とすれば、たしかにその「外」は「ない」とも考えられることであろう。
宗教においては、この「外」は「超越」の領域として確保されることになる。しかし、そのような「超越」を認めないような「非宗教的」な場合にはどうだろうか。
「中」だけしかなくなった場合には、必ず、「頽廃」するだろうか。これは「外」の無さに対する「ニヒリズム」とも言えるだろう。
*
「宗教」しかそのような「外」を提供しないか、と言えば、おそらく、そんなことはない。
非宗教性としての「世俗(主義)」というのを考えてみても、そこにおそらく同時にあるであろう例えば「自由」や「平等」等の「理念」は、おそらくはその実際的ないし現在的な実現不可能性ということから、「外」を提供するものと見なしうるように思われる。
あるいは、「芸術」や「哲学」(学問)といった活動も、そこでの理念的存在である「美」ないし「芸術性」、あるいは「真理」といった「理念」が、「外」を提示するものでありうる。
もちろん、伝統的な「神」の理念(それは理念と呼んでしまってよいのか?)と、それら非宗教的な「理念」について、その差異を等閑視してしまってよいのかということには、問題があるだろう。
しかし、その問題を措いておけるとして、はたして「外」なくやっていくことは可能だろうか?
「外」のないことを「ニヒリズム」と呼ぶとすれば、これは、ニヒリズムでやっていくことは可能だろうか、という問いになるだろう。
*
ニーチェはこの問題に「永遠回帰」という答えを提示したと見なせる。積極的なニヒリズム。
そして、これを「頽廃」の対比項と考えるなら、「頽廃」とは実は「消極的なニヒリズム」であった、わけである。その「消極性」は、実は「外」を求めているか、あるいは「外」がないことの嘆き、そうした感情と通じる。
「頽廃」とは、「余り物が腐る」という現象だろう。そこでは、何が余っているか。それを(生の)「エネルギー」のようなものとして考えられるだろう。エネルギーのやり場がないことに「腐る」。
ローカルな「内」を考えるのでなく、「内」を世界全体と重なるまでに極大化した場合、そこに「余り物」はあるだろうか。ないはずではないか?
そこにどんな余り物も日陰者もなく、全てが循環の内にあること、「永遠回帰」のビジョンとはこれだろう。
☆
さて、こう考えるなら、われわれは、この問題に関する「極点」に達したのだろうか。これとは別の可能性はもうないのだろうか。
ロゴスを踏み越えようとする(も、それにまた還らざるをえない)哲学者の営みは、例えばこの問題に関しては、むしろここから始まるだろう。と、言いたい――ただし、上記の考察が、ある種の「極点」に達したものだと仮定して――。
もちろん、そこでは、「この問題」なるものがそもそも存在するのかどうか、それが問われるべき「謎」に値するかどうか、問い直されるにちがいない。
母と話す、二つの症候について
以下は、母と会った話、そこでした話の話で、天理教関係話、間に少し組織論的な本質論で哲学風味、最後に(純)哲学(たらんとす)。
☆☆ ☆☆ ☆☆
昨夜は母と会って話した。六本木。国立新美術館にて、教会関係の方の絵画展示があるとのこと。私は時間が間に合わず、外で待ち合わせ。どこかで食事を、と。
移動しつつ日高屋があったのでここにしちゃおうかとするも(そういえば教会の○○くんがよく行きたがるのよね)、携帯の充電ができるところがいいとのことで、モスバーガーへ。
たいていどの人ととも、かもしれないが、久しぶりに会って話す場合、最初は、なんだか、気恥ずかしい。――と、これは、その後弟のバーに行ったときには、弟妻、そのまた下の弟、他初対面含め数人がおり、酒のせいもあるか、感じる間もなく打ち消されたのではないか、という類の、きっと微妙な感情。一対一であることや、素面であること、それで最初の気恥ずかしさは、すぐに跳び越されるのではなく、少し時間をかけて埋められる。
母からは、こないだ電話で話した件のことなど。大枠では同じことを言っていたと思うのだけど、別の、理と情という区別で言えば、情の側面を強調したかったみたい。
私はちょうど「天理教について」という文章をブログにアップしたのもあって、それについて「ああこれは私の話したいことだな」という自分の感情を、歩きながら、確認するなどする。
と言っても、母からの、今日美術館来れる人いたら一緒にという家族への呼びかけも、急なことで、しかし、私もちょうど、“お腹いっぱい”だったところで――いやちゃんと言うと、文章にして言葉を出すという行為に対する“胸がいっぱい”――、これはもう今日はあとは人に会うとか会話をするとか、部屋を出てそういうことをしたい、ちょうどいいタイミングだ、と思って出て来ていたのだった。
☆
ブログの話をする。「ブログってのはどういうやつなの? フェイスブックとかとは違う?」というところから。「天理教について」はまだ読んでないみたい。
父の話。あるいは、母の、「母ならよく通じるだろうと思って言うけど」、「人生がつまらない」という感覚、の話。母の言葉で言えば、「人任せの人生」。
あるいは経済観念の話。教会は、いろいろあるけれども、例えば、ウチや母の実家の教会は、わりと「裕福」ではないか? という話。
経済――あと私の脳裏には「政治」もあったが――は、コセコセした人間の営みで、あと「受験戦争」みたいのとかも、でもそこで「うまくやればそれだけうまくいく」という感覚、そこで「自分の力を手に入れる」という感覚、「実験して成功・失敗を味わう」感覚、こういうのがないと、さっきの「つまらない」になるんじゃないかな? という話。
(そう言えば、この話の発端は、妹の、資格を取って、「私にもこんなのできるなんて」という言葉があって、という話から。)
「裕福」な場合に、こういう細やか(さっきは「コセコセ」と言ったけど)な活動にアクセスしないでいること、とはいえ「教会」は経済活動をしていないわけでもなく、その「お客さん」であろうところの「信者さん」に対しては、とりあえずニコニコして、自分の「本音」みたいのも言えずにいたら――そして、そういうのが奨励すらされてしまって――、これはきっと「つまらなく」なっても仕方ないんじゃないかしら? という話。
かたや、父は、「つまらない」人だったわけでなく、こうだと思うところを進んでた、傍目にもとっても(トンデモ?笑)――あ、おそらく偏りなく言うとすれば、好意的に見てくれる人には――「面白い」人だったと思うけど、父の「勉強なんかできなくてもいい」という言葉には、ほぼ最近までないし現在進行形ですら?縛られてるところがあって、それはさっき「受験戦争」と言ったけど、たぶん、さっきとは逆の意味で、「コセコセしたもの」=「細やかなもの」を排除していたんじゃないかな? という話。
☆
話の流れを実際に即したふうに追うのを中断し、以下、本質論的に展開してみたい。(もちろん経験から本質を取り出すような類の本質論は、経験への細やかな観察に基づいてのみ当を得たものであることが可能で、そうでなければ、不恰好な作り物に過ぎなくなると思われる。)
* *
Aは組織の「外」を向く。Aによれば、組織の活動は「外」へ「手を差し伸べる」こと。かたや、その逆の、Bは、組織の「内」を向く。その活動は――先に、「ニコニコ」や、「本音を言わずに」と言ったところのものだが――、「内」に対して働く「ケア」的な側面。
Aは、その主張の極端において、「内」を疎かにしてしまう。実際の所、その「外」への「手の差し伸べ」は、「内」を支える人々が「外」においてなす、「細やか」で「コツコツ」(「コセコセ」でなくこう言おう)した人間的な経済活動によって支えられている。
Bはその極端において、「内」の内部的な表面にのみとどまって、これもまたその「内」を支えるものがなす「外」との交流――「細やか」で「コツコツ」した人間的な経済活動――が見えなくなってしまう。
どちらも、「細やか」で「コツコツ」した人間的な経済活動に対して盲目になってしまうという点で、共通する。「内」も「外」も、厳とした境界があるわけではなく、その「交流」で成り立つものなはずなのだが。
ある種の盲目が両方にある。「細やかさ」と、それの「実質的な」働き(「コツコツ」、「うまくやればそれだけうまくいく」というような実質)。これらを二要件に区分できると考えた上で、二種類の症候を説明してみよう。
B的な症候は、生が「つまらなく」なる。頽廃。「細やかさ」は形式だけになって空虚になっていき、実質を失う。
Aは劇的だけど、それが凄まじくなると、心と環境は荒んでいく。荒廃。実質への強度ある感度だけが上がり、そこにあったはずの細やかな形をなすものたちは、荒れ果て、消えてしまう。
☆
「でも、根本的な問題だとは思ってなくて、ある意味楽観してるというか、「外」への極端というのが父がやったことだとするなら、それを見せてくれたから、わかったところもあるというか。そういう実験をしてみせてくれたんだよね。「実験」だから、結果がわからないから、やってみる甲斐とか価値があるというか、やってみることが面白いというか、そういうのもあるよね。」
☆☆ ☆☆ ☆☆
では最後に哲学を。
「これは何か」という問いについて考えていると書いた。(当ブログ:「これは何か」)
上のような話をしているとき、その問いは、どうなっているだろう。上のような話をしているとき、そこにおいて、注意を向けられている「これ」は、主に、「そこで話されている事柄」のことになっているのではないだろうか。
そのような意味で、われわれは、あるいは私は、ほぼつねに(そしてまたすでに)、何かに「従事」している。そのときの「これ」(先の記事内では、「ひとまず「私の目の前のこれ」と言ってみたい」と言ったもの)は、何であるともわからないような何かなのではなく、たぶん、(ときにきわめて個別的でもあるような)ある特定の何かだ。
そのときあの問いはどうなっているだろう? 「忘れられている」のだろうか?
このことは、先の問いを考えるに当たって、関係のないことだろうか?
もちろん私は、ひとまず、ここには探ってみるべき何かがあるのではないかと考えている。