ピーナッツバターとバターピーナッツ──形而上学の息吹
(副題はちょっと大げさかもしれませんが…)
Mさんとお話していて、最近の「おやつ」にスキッピーを買った、と話した。「スキッピー」はピーナッツバターの商品の商品名。食パンにつけていただくやつですね。(ところで「ピーナッツバター」は、口で言うときには「ピーナツバター」と促音の「ッ」を抜かして言いませんか? 「体育」を「たいく」と言ってたりするようなものかな?)
そしたら最初Mさんは、ぼくが何か「ピーナッツ」の話をしていると思っていたようで、それが後から判明してきた。たしか「バタピー」という商品があったと思うけど、「ピーナッツバター」でなく「バターピーナッツ」と思ったら、そうか、バター状、クリーム状になった、食パンにつけるアレではなくて、バター風味のするピーナッツのことだと思っても、おかしくないかもしれないわけか。
「○○‐△△」という語句があるときに、だいたいにおいて、○○の方が形容詞的で、△△が名詞的になる気がする。後ろに来る方が本体というか、メインというか、になるんじゃないかな?
何かいい例はないかなと思って探していたのだけど、直ぐに浮かんだのは、「あおみどり」と「みどりあお」。(中学の時に美術の時間に12色相環と言って習った覚え。しかし、その後どちらの言葉も実地に使われた記憶はほぼないな。)
「あおみどり」は青っぽい緑。「みどりあお」は緑っぽい青。だから、「あおみどり」は緑に近く(緑の仲間)、「みどりあお」は青に近い(青の仲間)。
「ほら、ね、後ろに来る方が、何て言うのかな、本体というか」
「メインって感じ?」
「そうそう」
Mさんも例を探してくれて、「マジックミラー」と「ミラーマジック」。ミラーマジックの方は、すでに登録された語彙としてあるわけじゃないかもしれないけど、そういう語句は作れそう。作ってもあまり不自然な感じはしないような気がする。
「あ、すごい、そうそれも、マジックミラーはあくまでミラーで、ミラーの一種で、ミラーマジックはあくまでマジックがメインで、マジックの種類で。」
「マジック‐ミラー」の例がいいなと思ったのは、違うタイプの語句の組み合わせでできているところ。「あお‐みどり/みどり‐あお」だと、「あお」も「みどり」もどちらも色名で、だから交換がしやすそう。こういう、交換できそうな例が、探してもなかなかなかったりもして。
「ミラー‐マジック」の「ミラー」は物(道具)の名前だけど、「マジック」は行為の名称。タイプの違う語句だと考えられそう。元々の「ピーナッツ‐バター」はどっちも物の名前と考えられそうで。交換にあまり面白味がない(笑)というか?
しかし。「ピーナッツ‐バター」も、細かく考えると、ちょっと違うかな、と思ったのだった。というのは、「バター‐ピーナッツ」においては、「バター」も「ピーナッツ」も両方物(素材)の名前として使われているだろう。しかし、「ピーナッツ‐バター」の方は、「ピーナッツ」は物(素材)の名前だけど、こっちの「バター」は、素材としてのバター(牛乳から出来ていて、発酵させて作るアレ)ではなくて、「バター状になった、クリーム状の」という意味の、いわば形状の名前だ。
(ちなみに「あお‐みどり/みどり‐あお」の場合は、交換を経て語のタイプが変わらず、「等価交換」とでも呼べるかもしれない。)
あと考えたり道端で見つけたりした例は、どれもうまい例ではないのだけど、
・「焼肉」と「肉焼き」、「焼き魚」と「魚焼き」(これらは両方とも「後ろがメイン」の法則に合致しそう。)
・「タン塩」と「塩タン」(なぜ「タン塩」と言うのだろう? それじゃ塩になっちゃわない? 本来――と言えるかどうかもちろんわからないが、「後ろメイン」理論(笑)によれば――塩タンと言うべきでは?)
・(本名で話したけど、ここでは有名人物の名で)「豊臣秀吉」と「秀吉豊臣」(「後ろがメイン」だとすると、日本式の言い方(氏‐名の順)は個人がメインで、英語等はファミリー(家)がメイン?――まあこれは戯言(笑))
・「上杉医院」と「医院上杉」(後者はなんか「気取ってる」(笑)。片仮名で「医院ウエスギ」って書きたい感じ。「医院」であることよりは自分メインで出したいのね、みたいな?「後ろメイン」(エセ)理論によると。)
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さて。まぁちょっと面白かったということなんですが、つまりは、ちょっと、か、かなり、牽強付会して言ってみると、このようなところに、言語哲学的‐形而上学(存在論)的な 息吹 を感じたということなのでした。語の使用規則みたいなところから、実在の構造に分け入っていく、という感じでしょうか。
あとしかも、ちょっと「子どもの哲学」的なものを感じたりして。
Mさんが思い違いをしてくれたおかげなのでした。
“「システムしかない世界」への抵抗”
テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗http://arabic.kharuuf.net/archives/2216
興味深い。「面白い」と感じる。
(ちょうど「ポリコレ(→PC)」に関して、先の記事(「(モラル・)ハラスメントについて」)で一瞬触れたので、それもあって。)
擦り合わせる言葉は、たぶんまだそれほど持ち合わせていないけれど、それでも違和感を言葉にしてみる(そしてこれがひいては「抵抗」の「散種」でもあると思う)なら、ここに「子ども」を対置させてみたい。
「戦い」(「抵抗」かな?)は「遊び」のようにしてなされるべきではないか、という気がするが、どうだろうかなぁ…
以下は記事からの抜粋。
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>「PCというのは基本的に『正しい』だからね。これとどう戦うのかというのは、すごく難しい」
>いささかベタですが、ざっくりと「資本主義への抵抗」ということで言うなら、カサブタ的言説一つひとつは、わたしたちの人間性を防衛する方向で働いています。問題は、これが相互に連結されスターリニズム的な大きな物語となり、体制化することです。この体制化というのは、極悪非道な権力者が無茶苦茶をする、ということではなく、人民自ら「システム化したカサブタ」を内面化し、単にカサブタに過ぎなかったものを自然の皮膚であるかのように振る舞いだすことです。つまり「テイ」をガチに受け止めてしまう、ということです。これが正に、現在進行している「世界の左傾化」、スターリニズム的ディストピアの支配です。
>これは言わば、「隠された意味」を探す神経症から、総ての意味が現前している精神病への転回です。
>システムのない社会というものはありません。(…)しかしシステムしかないなら、それは社会ですらありません。
>ここで投げたいのは「正しいことは正しいのか」という愚問です。
>わたし個人としては、そうした「小さい」外山恒一を愛おしく思うし(声の大きい者にロクな奴はいない、声が大きい時点で例外なくクズなのだ)
>多分、この運動は組織の大規模化ではなく、外山恒一の複数化を志向しなければいけないのでしょう。
>氏が一番力を入れているのは春夏の学生向け合宿であり、運動スタイル自体を「どんどんパクれ」と勧めています。(…)散種されたものが変異し走り出すしかおそらくは方法がないのでしょう。
>叩けば埃が出るくらいで丁度です。むしろ積極的に少し「悪人」でなければなりません。
言葉の「はばかり」について
ブログを始めましたが、それは自己紹介にも書いたように、SNSで長い文章を書くことがあるからでした。具体的に言えばFacebookとかですが、なんとなく、「雰囲気に合わない」ような感じがしたり。
その前は(今も)mixiを利用していて、それも最初は、永井均先生のゼミに無所属生として通っていた頃、永井ゼミの関連の方々の間でmixiの利用が始まったからでした。たしか永井先生からやってみれば?とお誘いを受けた気がします。
最初は自分で何かを書くのも全然していなかったと思いますが、そのうち恐る恐る書き始めた気がします。
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と、思い出すことをつらつらと書いてしまおうかと思いますが、高校の時に山岳部に入っていて、そこで「部誌」という存在がありました。活動日誌よりももっとどうでもいいような存在で、単なるノートにみんなが好きなことを書いているというものでした。
最初はその「部誌」の存在も、すごく「恥ずかしかった」ような記憶があります。周りのみながどんなことを書いていたかというと、まあ、こないだこんなことがあったとか、好きなモノ、音楽、場所とか、まぁそんな感じでしょうか。(だからそれがいたって「普通」かもしれないことなのに、なぜそんなに「恥ずかしい」ことなのか、ちょっと謎なことでもあります。)
だけどなんか、「一念発起」というのはちょっと違いますけど、なんだか突然「キレた」かのように、そこに何かを書いた覚えがあります。「こんな恥ずかしい部誌に書いてます」という、自分の書いた文言の記憶があります。
その後は各々わりと「地味」めな(男子)部員たちも(笑)、それぞれの「創作」めいたことを書くようになったりして、思えば「部室」における「部誌」の存在が、かなりのウェイトを占めるものになっていったような記憶です。
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さて、mixiまで話していました。
mixiは永井ゼミの関連だったので、永井先生はじめ「哲学」の話題が多いものでした。(永井先生のmixiの日記は書籍にもなっています。『哲学の賑やかな呟き』)それはそれでそれなりに「楽しい」(まぁ簡単に言っちゃえば)ものでした。
そのうち、Facebookなりtwitterなりの存在も出てきはじめますが、自分にとっての「主戦場」はしばらくmixiでした。
と言っても、最初は自分で何かを書くということもあまりしなかった(と思う)のですが、これもあるときから「書き始めた」ように思います。
それに関してはまたちょっと複雑なものもありますが、というのは、まあいまやアレですが、このブログではすでに自分の実家である「天理教」のこともオープンにして書いていますが、当時は「天理教」なんていうワードはぜんぜん出す気になれなかったですね。「宗教」ですら。
今から考えると、まあメチャメチャ「抑圧」があったんだろうなぁという感じがしますが。ですがある時に、このまま「哲学」を続けるのに、「宗教」(そしてひいては「天理教」)も、避けて通れないなと思ったことがあり、それについても「考えていこう」と思ったのでした。
で最初は「天理教」なんてワードは出せず、「宗教」や「信仰」どまりだったと思いますが、それですらかなり「おっかなびっくり」だったと思います。周りからどう見えたかはわからないんですが。
一度どっか(たぶんmixi)で書いたことあるんですが、「内臓」「皮膚の内側」が出てしまうような、ヒリヒリした感覚というのが、自分の「言葉」を出す際に伴うような感じも(ときに、ないしつねに)ありました。
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さて、こう書いてみると、タイトルの「はばかり」ということですが、つまり、今でも、何か書こうとする場合に、もちろんそれを人の目に曝そうとする場合に、「はばかり」を感じるのですが、それはなぜだろうかということがあって、その理由ですが、おおよそのところは明らかなんですかね。
つまり、以前の、強烈な「恥ずかしさ」、「恐る恐る」「おっかなびっくり」「ヒリヒリする感じ」がいまだその残滓が残っているということ。
と言っても、もうそんなことすら書いちゃってるわけですから、周りの人から見れば、んなことぜんぜんないじゃん、てなことにもなりそうな気もします。
一つ思うのは「過剰適応」の気味もあるんじゃないか、ということ。どうだろうな。
やや難しく考えるとすると、以前「「勉強なんかできなくてもいい」について」で書いたような、「信仰について哲学することは悪魔のようなこと」なんでないか、というような問題にもつながるような感じもあります。
(あとは、もっと極端に「哲学風味」――あくまで風味――で言うなら、「言葉を語ることは全て嘘を騙ることだ」とでも言ってみたいような気もありますが…まぁでもこれとりあえずは「自己論駁的」ですよね。)
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ちょっと行きがかりがてら、話を敷衍することにして、上のは言い過ぎだけど、「言葉を語ることは全てどこかはしたないものだ」くらいに「弱めて」やれば、どうでしょうか。何となく、シンパシー程度感じるものがありますが…。そのシンパシーからすると、だから「言葉を語るときには全て何らかの大義を持って語るべきだ」という規範的文言にもシンパシーが感じられます。
そしてさらに、これを、「どうなんだ?」と考えてみたいわけですが。というのは、「哲学対話」なんかからも思うことですが、「会話」と「対話」という対比を考えることができるように思っています。「対話」とは、ある主題に関して、そこでの話の道筋(永井ゼミ的用語では「論脈」、あとはまあいわゆる「ロゴス」)を厳密に追いかけるようにして、なされるもの。「会話」とは、まあ雑駁に、そういう仕方以外での言葉のやりとりです。
会話というのはだから、「無意味」というのは言い過ぎですが、上で使った言葉で言うなら、「大義」を持たない言葉のやりとり。言葉を使うときに、何らか「大義」があるべきでしょうか? そうでない言葉のやりとりは、単なる「くだらない」ものでしょうか?
以前に「くだらない」ものの「意味」ないし「意義」について考えたことがありますが(それはまだブログ開設前で、各SNSに載せました)、まあ、「くだらない」ものは「無意味(無意義)」だからこそ、そう呼ばれるわけですが、意味(意義)のない言葉、言葉にならないような言葉を発することは「叫び」に似た効果があるんではないかな、という趣旨のことを書いた覚えです。
まぁ、単に当たり前の、それこそつまらないことかもしれませんが…、までも「くだらない」まで極端に考えなくても――おそらく、いつもまず極端を考えようとするクセがありそうーー、会話ということで普通に考えれば、それはそれなりの意味(意義)を持っているように思います。例えばそれは「毛づくろい」みたいなものに似ているものかもしれません。で? それ以上の何が言いたい? 何かあるの? ……以前の記事のリンク(「会話」の意義について)を貼ってお茶を濁すことにいたします。(以上、脱線でした)
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さて、「はばかり」の正体、何だろうか。
わかりません。それでも、「はばかり」があるよ、と言って(書いて)みました。これは「外堀を埋める」感じでしょうか。「正体」であるところの「お城」「本丸」にはまだたどり着いた感じはありませんが…
が、しかし、「ゼロ」を目指さなくてもいいのかもしれませんね。
いずれにせよ、ボチボチやっていくことにします。