Hajime notes

謎を食べて生きる

祖父たちの思い出

 祖父が亡くなった。母方の。

 父方も母方も、祖父というのは、少し縁遠い存在だったかもしれない。祖母たちのようには親しく話しかけられるわけでもなく、どちらも天理教教会長の経歴やらから敬慕の声を聞きもする中、「偉い」感じはなんとなくわかるけれど……というような。

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 父方の祖父は亡くなって、もう8年だろうか。アルツハイマーだったか、認知状態の低下がだんだんと進んでいく晩年であった。

 覚えているのは、私が祖父母の居室の隣の和室で絵を描いていたとき、二人して通りかかり、祖父は「私の描くのは天然自然の絵だよ」とだったか、言っていた。ニコニコしながら。(私はボールペンで禅タングルのような“変な抽象画”を描いていて、だからいちおう、その“抽象画”ということに対比して言われた言葉と思う。でも非難のようにして言われた言葉でなく、祖父母とも私が描いているのを好意的に眺めてくれていたように覚えている。)
 「天然自然」という語は、天理教の用語というわけでもないかもしれないが、天理教では神を「月日親神」と言ったり、「この世は神のからだ」と言ったりして、たしか「神様というのはこの天然自然(の理)のことだよ」というような言葉も(祖父母からかどこからか)聞いたことがあったかもしれない。

 あとは、お風呂。一人ではもう入れず、叔父に言われ、私が付き添って一緒に入ったのだった。
 湯に浸かりながら、とても気持ちよさそうにしていた。私はそのとき、大学を卒業し、実家教会の手伝いをしている身だったと思う。自身もその自分の境遇にいろいろな思いを抱く中、ああしかしこのような思いは、目の前のこの人もいろいろ抱いてきたのであろうな、という思いだったか、そのようにして見ると、なぜかすごく神々しく見えたのだった。

 どこか縁遠いという気持ちが「親しみ」に変わったエピソード、である。

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 母方の祖父は、私が大学入学したときに、ぜひ話をしたいからと、関西の母の実家へと呼んでくれた。私はそのときの祖父の話をほとんど覚えていない。というのも、すごく眠くなってしまっていたのだった。話の内容によってのことだったか、体調的なことだったか。(それはその後も、申し訳ないような気持ちだった。まあ、今もか。)
 一つ、「何でも見てやろう」という本だか言葉だかのことを覚えている。そういうつもりでな、ということだったと思う。(としてみると、あながちやはり聞いていなかったわけでもないとも思える。その言葉の多少の影響を感じないわけでもないから。)

 昨年の正月に母と一緒に天理教本部の祭典に訪れた際に、母の実家に泊まった。私の父はもう亡くなっていて(そのときは没後三年ほどのこと)、私は、父との間に持っていた葛藤について、その少し前に、常識的な観点からは驚くべきかもしれないような、しかし何かが開けたような、発見的な出来事があった。私はそのことを母に話した。母は驚いたが、祖父にも話してみては、何か通じるかもしれない、と言った。私はその言葉にもちょっと驚いた。まさか、祖父に話すなんて?
 しかし、自分の中で共感もあり、次の日の朝、喫煙所で、祖父に話した。もちろん、時間的、それから、祖父の認知的なものへの考慮もなかったわけでもないが、そういうことから、ごくごく手短に。
 驚きの表情と共に受け入れてくれ「いろいろ思うことあるやろうけどな、なぁんも心配あらへん」というのが最初の言葉で、それから、「わしもな…」という自分の経験、また「○○もな…」という祖父の幼い頃からのなじみの身近な方の経験を話してくれた。
 私はとてもうれしかった。こんなにごく短いやりとりの中で伝わって、共感を返してもらえる、それが祖父との間でできるなど、思いもよらないことだった。
 その日の祭典では、祖父の横にいて、祖父は「おうた」や「てぶり」を弱いながらも力いっぱいという感じでしていて、私は、こんな祖父の真似をして一緒に参加してもいいな、したいな、と思ったのだった。

 それから会ったのは一度、祖父母を囲む会のようなもののときに。その前に、上記の件の、お礼というかを、改めて手紙で送ったり、電話もしたろうか。

 昨日亡骸に対面したときは、こんなに細くなって、と思ったが、清拭後、きれいな顔であった。

 それから私は直接伝えたかった身辺の報告を、亡骸の祖父の顔に語りかけた。そのとき祖父がいつもの表情と口調で、そうかーよかったなあと言ってくれた、そんなイメージが鮮やかに浮かんだ。そのとき祖父と会話したのだということを、個人的には信じてもいいと思っている。

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 昨日新幹線の車中で窓外の景色を眺めながら書いたつぶやき:

新幹線で関西へ移動中。窓外の景色を眺める。眺めることは退屈といえば退屈だが、楽しいといえば楽しい。たぶん、夢想的な楽しさ。退屈の方は、実在的実質的なものへの退屈。もっと“文化”の匂いへの感受性を高めれば、もっと実質的な楽しさをも享受できるだろうか(などと夢想)。

雲を眺める楽しさに気づいた頃に、景色の半分は雲だとも気づいた。地上と天上の別。先の、実質的と夢想的の区別は、これに重なるなと思った。人間的“文化”の形をなすものが半分、もう半分は不定形の夢想の領域。景色をただ眺めるだけ、視覚という明快な手段で、それを象徴的に見せられる。(つぶやきは以上)

 「雲を眺める楽しさに気づいた頃」というのは、父の死の前後のことだった。形あるものから形ないものへ。形あるものは形ないものから生まれたのだろうし、またふたたび、形ないものから形あるものが生まれてくるのだろう。

 おじいちゃん、さようなら。ありがとう。

【2017年8月23日記、24日に加筆修正】

ピーナッツバターとバターピーナッツ──形而上学の息吹

(副題はちょっと大げさかもしれませんが…)

 Mさんとお話していて、最近の「おやつ」にスキッピーを買った、と話した。「スキッピー」はピーナッツバターの商品の商品名。食パンにつけていただくやつですね。(ところで「ピーナッツバター」は、口で言うときには「ピーナツバター」と促音の「ッ」を抜かして言いませんか? 「体育」を「たいく」と言ってたりするようなものかな?)

 そしたら最初Mさんは、ぼくが何か「ピーナッツ」の話をしていると思っていたようで、それが後から判明してきた。たしか「バタピー」という商品があったと思うけど、「ピーナッツバター」でなく「バターピーナッツ」と思ったら、そうか、バター状、クリーム状になった、食パンにつけるアレではなくて、バター風味のするピーナッツのことだと思っても、おかしくないかもしれないわけか。

 「○○‐△△」という語句があるときに、だいたいにおいて、○○の方が形容詞的で、△△が名詞的になる気がする。後ろに来る方が本体というか、メインというか、になるんじゃないかな?

 何かいい例はないかなと思って探していたのだけど、直ぐに浮かんだのは、「あおみどり」と「みどりあお」。(中学の時に美術の時間に12色相環と言って習った覚え。しかし、その後どちらの言葉も実地に使われた記憶はほぼないな。)

 「あおみどり」は青っぽい緑。「みどりあお」は緑っぽい青。だから、「あおみどり」は緑に近く(緑の仲間)、「みどりあお」は青に近い(青の仲間)。

 「ほら、ね、後ろに来る方が、何て言うのかな、本体というか」
 「メインって感じ?」
 「そうそう」

 Mさんも例を探してくれて、「マジックミラー」と「ミラーマジック」。ミラーマジックの方は、すでに登録された語彙としてあるわけじゃないかもしれないけど、そういう語句は作れそう。作ってもあまり不自然な感じはしないような気がする。

 「あ、すごい、そうそれも、マジックミラーはあくまでミラーで、ミラーの一種で、ミラーマジックはあくまでマジックがメインで、マジックの種類で。」

 「マジック‐ミラー」の例がいいなと思ったのは、違うタイプの語句の組み合わせでできているところ。「あお‐みどり/みどり‐あお」だと、「あお」も「みどり」もどちらも色名で、だから交換がしやすそう。こういう、交換できそうな例が、探してもなかなかなかったりもして。

 「ミラー‐マジック」の「ミラー」は物(道具)の名前だけど、「マジック」は行為の名称。タイプの違う語句だと考えられそう。元々の「ピーナッツ‐バター」はどっちも物の名前と考えられそうで。交換にあまり面白味がない(笑)というか?

 しかし。「ピーナッツ‐バター」も、細かく考えると、ちょっと違うかな、と思ったのだった。というのは、「バター‐ピーナッツ」においては、「バター」も「ピーナッツ」も両方物(素材)の名前として使われているだろう。しかし、「ピーナッツ‐バター」の方は、「ピーナッツ」は物(素材)の名前だけど、こっちの「バター」は、素材としてのバター(牛乳から出来ていて、発酵させて作るアレ)ではなくて、「バター状になった、クリーム状の」という意味の、いわば形状の名前だ。

(ちなみに「あお‐みどり/みどり‐あお」の場合は、交換を経て語のタイプが変わらず、「等価交換」とでも呼べるかもしれない。)

 あと考えたり道端で見つけたりした例は、どれもうまい例ではないのだけど、

・「焼肉」と「肉焼き」、「焼き魚」と「魚焼き」(これらは両方とも「後ろがメイン」の法則に合致しそう。)

・「タン塩」と「塩タン」(なぜ「タン塩」と言うのだろう? それじゃ塩になっちゃわない? 本来――と言えるかどうかもちろんわからないが、「後ろメイン」理論(笑)によれば――塩タンと言うべきでは?)

・(本名で話したけど、ここでは有名人物の名で)「豊臣秀吉」と「秀吉豊臣」(「後ろがメイン」だとすると、日本式の言い方(氏‐名の順)は個人がメインで、英語等はファミリー(家)がメイン?――まあこれは戯言(笑))

・「上杉医院」と「医院上杉」(後者はなんか「気取ってる」(笑)。片仮名で「医院ウエスギ」って書きたい感じ。「医院」であることよりは自分メインで出したいのね、みたいな?「後ろメイン」(エセ)理論によると。)

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 さて。まぁちょっと面白かったということなんですが、つまりは、ちょっと、か、かなり、牽強付会して言ってみると、このようなところに、言語哲学的‐形而上学存在論)的な 息吹 を感じたということなのでした。語の使用規則みたいなところから、実在の構造に分け入っていく、という感じでしょうか。
 あとしかも、ちょっと「子どもの哲学」的なものを感じたりして。

 Mさんが思い違いをしてくれたおかげなのでした。

“「システムしかない世界」への抵抗”

テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗http://arabic.kharuuf.net/archives/2216

 

興味深い。「面白い」と感じる。
(ちょうど「ポリコレ(→PC)」に関して、先の記事(「(モラル・)ハラスメントについて」)で一瞬触れたので、それもあって。)
擦り合わせる言葉は、たぶんまだそれほど持ち合わせていないけれど、それでも違和感を言葉にしてみる(そしてこれがひいては「抵抗」の「散種」でもあると思う)なら、ここに「子ども」を対置させてみたい。
「戦い」(「抵抗」かな?)は「遊び」のようにしてなされるべきではないか、という気がするが、どうだろうかなぁ…

 

以下は記事からの抜粋。

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>「PCというのは基本的に『正しい』だからね。これとどう戦うのかというのは、すごく難しい」

>いささかベタですが、ざっくりと「資本主義への抵抗」ということで言うなら、カサブタ的言説一つひとつは、わたしたちの人間性を防衛する方向で働いています。問題は、これが相互に連結されスターリニズム的な大きな物語となり、体制化することです。この体制化というのは、極悪非道な権力者が無茶苦茶をする、ということではなく、人民自ら「システム化したカサブタ」を内面化し、単にカサブタに過ぎなかったものを自然の皮膚であるかのように振る舞いだすことです。つまり「テイ」をガチに受け止めてしまう、ということです。これが正に、現在進行している「世界の左傾化」、スターリニズムディストピアの支配です。

>これは言わば、「隠された意味」を探す神経症から、総ての意味が現前している精神病への転回です。

>システムのない社会というものはありません。(…)しかしシステムしかないなら、それは社会ですらありません。

>ここで投げたいのは「正しいことは正しいのか」という愚問です。

>わたし個人としては、そうした「小さい」外山恒一を愛おしく思うし(声の大きい者にロクな奴はいない、声が大きい時点で例外なくクズなのだ)

>多分、この運動は組織の大規模化ではなく、外山恒一の複数化を志向しなければいけないのでしょう。

>氏が一番力を入れているのは春夏の学生向け合宿であり、運動スタイル自体を「どんどんパクれ」と勧めています。(…)散種されたものが変異し走り出すしかおそらくは方法がないのでしょう。

>叩けば埃が出るくらいで丁度です。むしろ積極的に少し「悪人」でなければなりません。