Hajime notes

謎を食べて生きる

「これは何か」への問い返し

 「これは何か」問題(「これは何か」 - Hajime notes)について、一歩を進めたい。 

 考えを進めて来て、これまでで三種の問い返し(応答)を得ることができた(と考えている)。AとBとの対話という形で説明しよう。

 

――AとBとの対話――

A:これは何か?


①B:これって? ――Aによる再応答:……私の目の前のこれ。

②B:何でしょうね。何だと思いますか?

③B:何でしょうね。私はこうではないかと思います。すなわち…

――対話の提示終わり――

 

 さて、①においては、Aの「問い」は、Bによってまだ「受け取られて」いない。
 この問い返しは、アンスコム"The First Person" で言われるところの「この何?(This what?)問題」である。(cf. アンスコム「一人称:「私」は何を意味するか」大辻正晴訳、熊本大学『文学部論叢』104、2013年、pp. 122-3)
 対して、②および③は、問いをすでに「受け取っている」と考えることができる。その問いが問おうとしているところのものを何らかの仕方で把握しつつ、その問いを先に進めようとして、さらなる問い返しをするのである。だから、これらは、①におけるまだ問いを「受け取って」いない状態での「問い返し」とは、根本的に異なる、と考えることができる。
 アンスコムの論述の文脈における「この何問題」の取り扱い方からすると、その問題は、「これは何か」という問いを問いとして成立たらしめる際に「阻害要因」として働くと言える。すなわち、「この何問題」に阻まれるために、「これは何か」という問いは問いとして成立しない。
 しかし、これはある種の「禁欲的」な考え方かもしれず、Aの再応答「……私の目の前のこれ」によって、Bに、問いが問うてるものについて、何ごとかが把握されるとするならば、必ずしもそのように考える必要はない、と言えると思われる。

 

 さて、②は、Bが、Aに、Aが持っているであろう「問い」の答えとなりうるであろう何らかのものに対する何らかの「了解」について問い質そうとしている、そうした問い返しである。

 このような問い返しには、以下のような前提があると思われる。すなわち、問いを問う者は、その問いを問うに当たって、すでに何らかのことを了解しつつ――その限りで何らかのことを「知り」つつ――、問いを問う、ということ。そしてまた、これにプラスして、そのような何らの「了解」がない限り、問いが問われるということはない、という前提を付け足すこともできそうである。

 

 さて、③は、そのような前提を②と共有しつつ(と思われる)、②とは別の仕方での応答である。それは、Aの側にあるであろう「了解」について尋ねる問いではなく、Bの側にある「了解」を提示しようとする仕方での応答である。


 さて、②と③の内実については、現時点では、まだそれほど深く掘り下げられてはいないが――現時点ではとりあえず、上でも述べたように、それらは共に、問いをすでに「受け取って」おり、AないしBの「了解」の開示を求める方向に進んでいるという点で共通する、というとこらへんまでを(現時点での暫定的段階として)解明している――、これらの違いについては次のようなことを言えるように思われる。
 すなわち、②は問う者の持つであろう*1「了解」について尋ねる問い返しで、この意味でAの問いに対する「内在的」応答なのに対し、③は問う者ではないBの「了解」を開示しようとする、その意味で「外在的」な応答である、ということである*2


 さて、この三種を得たということで、さらにまたそこへと「返り」つつ、問いたい。
 この三種は、問いに対して、それぞれどういう身分に立つものであろうか(もちろん、このことについては、上でも、少しく解明を試みている)。この三種以外に「問い返し」の種類はあるか。この三種の関係はいかなるものであるか(②と③の関係については少し述べた)。

*1:そしてこの「持つであろう」は、「問い」が問いたるための条件(問いの超越論的条件?)の分析から取り出せる(と思われる)、「持っていうるのでなければならない」であろうと思われる。本文アンダーライン部参照。

*2:しかし、Bがたしかに問いをすでに「受け取って」いるのであれば、こう言うことはできないだろう。彼がすでに「受け取って」いるのであれば、彼はAと「共に問う者」となったのである。したがって、そのときには、Aのこの応答を単純に「外在的」であると判断することはできないと思われる。