Hajime notes

謎を食べて生きる

「会話」の意義について

ツイートまとめ:

https://twitter.com/haihoo/status/877074358904078341より連投:

宗教に関してよく「洗脳(brainwashing)」が問題になったりするけど、ここには本質的な問題があって(伏在していて)、全ての洗脳から簡単に免れられると考えるのはあまりに素朴ということがある。おそらくはあまりに“潔癖”になり過ぎると、死んでしまったりもするだろう。

おそらくは「常識」の観点から、過度の逸脱は避けられるべき、とされるのだろう。しかし、「常識」は、どの程度「規準」たりうるのだろうか。ここでは、だからやはり規準などないのでは、と思わせられたりする。――ここで、「会話」(ひいては日常言語)の意義を惟ったりする。

「会話ができない」「話が通じない」ということの意義。どれだけ奇異なように見えても、会話ができることによって、安心したりする。宗教に関して言えば、そこからその特殊な言葉遣いや習慣的行為を除こうと考えるのは、そこから魂を抜こうとするようなものだろう。その「特殊性」は本質的である。

だが、おそらくそれは何らかの仕方で常識との接点を持たざるをえないようにも思われる。この接続点として「会話」というものを考えられないだろうか、というのが上述の惟い。自然性に基づく「会話」に比して、「対話」は理念性に基づく。そしてこの点に対話の不可能性ないし不要性があるかもしれない。

しかし、あくまで「哲学」は、自然性を忌避しさえする、理念性に基づく「対話」的な営みである。ならば宗教に関して哲学するとはどういうことになるか。「魂」を別のものに還元してしまえば、魂は死んでしまう。「語りえないもの」。もちろん、哲学はここで終わるのではなく、むしろここから始まる。

以下は、https://twitter.com/haihoo/status/877087517744414720より連投:

ウィトゲンシュタインはそこで哲学は終わったと考え、そこで哲学を降りた。何が彼を戻らせたか? 日常言語への還帰として説明されるとき、上のような「会話」に関する私の惟いはそれと連携しうる。「理念」は「ツルツルした氷」だ。――ところで、そこで、「規則のパラドックス」とは何だろうか。

クリプキの解釈からは、「全知」が覆い得ないもの(神さえも知り得ない)という契機を取り出すことができる。〈私〉は世界から浮いている。その浮いた〈私〉が、例えば言葉によって、世界へ接続する。「私の言葉」。それはどのように意味を持つ(世界へ接続する)か。

クリプキウィトゲンシュタインは、そのような接続を保証するものは何もないと言う。ツルツルした氷に摩擦を取り戻すことはできない、ツルツルした氷によっては。私の言葉は、「自然」に根を下ろさなければならない。…しかし、そうだろうか? 私とは別の魂や神は理念でも自然でもないのではないか?