Hajime notes

謎を食べて生きる

satukiさんへの返信

以下は、ツイッター上でのやりとりでの返信のために書かれた文章です。

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satukiさん、こんばんは。
案の定ですが長くなりましたので、ひとまず、自分のブログに上げるという形を取らせて頂こうかと思います。satukiさんのお名前ですが、ツイッター名ですので、記事にそのまま使わせて頂こうかと思います。(ブログに上げることも含め、問題があれば仰ってください。)
 
まず、ご質問有難うございます。今、下にも書くように、いろいろ挑戦している最中でして、そのように投げかけて頂けるのは有難いことに思っています。
 
さて、ご質問に関してですが、おそらく詳しく説明するのは、たぶん無理だと思います。(ネット上という)場の制約もありますし、私自身の(心の)整理もまだ付いてないという問題もあります。しかしおそらくはごくごく単純に言ってしまえば、satukiさんの仰って頂いた言葉(勉強への罪悪感)で言えるのではないかな、という気もしました。
 
「気もしました」と言って、はっきりそうだと言えないのは事情が複雑だからということもある気がしますが、それとは別に、自分の心を知るというのが私には非常に大変なことだったという事情もある気がします。
 
これまでで自分の経験を言葉にするのに、非常に時間がかかりました。自分は苦しかったというだけのことを言葉にするだけでも、ずっと全く言えないできて、やっと口にしたときには涙が出てしまった、ということがあります。こんなふうにネット上でまだ面識のない方相手に言葉にするのなど、以前の私には考えることすらできなかったと思います。
 
その言葉にできなさは自身の内面の苦しさについてだけでなく、「天理教」ということについてもそうでした。おそらくは、天理教について語ることは、私にとっては、自身の苦しさに向き合わざるを得ないことになり、その苦しさの整理ができていない段階では到底無理だった、ということかな、と考えたりします。
 
今いろいろ言葉にしようと試みていますが、昨夜「他の方の参考になるのではないか」と書きましたが、それも別に嘘ではないつもりですが、おそらく一面的で、とりあえず今何のためかもわからずにとにかく言葉にすることを求めている、という側面もある気がします。
 
私自身はこういう自分の非常に個人的なところから考えていくことが、何か重要なことのように、とりあえず今はそんな気がしています。
 
ブログの文章のようなものは、またいろいろなファクターが絡んできて、ときに読みづらいものかもしれませんが、とにかく色々な形で挑戦してみようとしている、という段階です。
 
こうしてこのような場を使って、天理教に関係を持つ皆様と話を交わせるのも、有難いことに思っています。
 
与えて頂いた言葉(勉強への「罪悪感」)はまた一つの手掛かりとさせて頂ける感じがします。(きっと答えがそれだとしても、その答えに納得するのに自分の中でゆっくり何度も反芻する時間が必要です。今までそういうことを何度も繰り返してきました。)
 
自分の心の安定に気を配りつつ、今しばらくは今の形での“挑戦”を続けると思いますので、またどうぞよろしくお願いします。