恋人がいます。彼女にはこれまで、いろいろな話を聞いてもらってきました。
これまでも少し書いてきたように、実家の天理教教会のこと、父(そして母)との関係のことが、自分には、ずっと誰にも話せないで来たようなところがありました。
もちろんこれは彼女との間においてもそうで、そのたびに「何も言えなく」なり、そのたびにやっと「口を開く」「心を開く」というプロセスが何度もありました。(周回的にやってくるその“鎖国”状態のことを「とじこもり」と呼んでました。)
ということで、最近彼女と話したことで印象深く思えた話について書きます。金メダルと銀メダル(そして銅メダル)の話。
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もともとは、たぶん、怒りについての話題でした。何か相手に伝えたいことがあるときに、怒りを交えずに語った方がよいよね、という話です。
おそらく、理想を言えば、その通り、物事を伝えるときに怒りを交えずにした方がよい、のではないでしょうか。少なくとも、そういう言われ方をすることは多いように思います。
私自身も、最初はその“理想論”に立った上で、話していました。そして、ときに怒りを交えて語った方がいいことがある、という考えがありそうだけど、それは間違いなんだと思う、ということを言っていました。
恋人の方はそれに納得いかないものがあるようでした。なんとなれば――
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――でもさでもさ、怒っちゃいけないということを思い過ぎて、何にも話せなくなっちゃうということになるくらいだったら、怒りが交ざってしまうけどそれでも伝えるという方のがいいんじゃない?
――でも怒りを交えない方がいいことはいいんだよね?
――そうかもしれないけど…、交えない方がいい、かもしれないけど、絶対に交えちゃいけないわけじゃないんじゃないのかな。
こう考えたらどう? 怒りを交えず冷静に話せたら金メダル。怒っちゃいけないと思って、でもそれで伝えることを伝えられなくなっちゃうのは、銅メダル。怒りが交ざっちゃうけど、でもそれで伝えることを伝えられるのは、銅よりはよいことで、銀メダル。
――にゃるほどー…、そっか、おれ、金メダルにこだわりすぎるトコがあって、それでいつも、てゆか何度も何度も、銅メダルだったもんね…。たしかにそうかも…
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ということで、以前のエントリーにも書いたことがありますが、私は「自分の心を知る」とか、いやそれよりももっと手前かな、もっと単純に、「自分のしたいことを話す」「自分の感情を表に出す、表現する」ということが、けっこう、かなり(いや極度に?)苦手なところがあって、それは、金メダルにこだわりすぎるところがあるから、というのも、その一因になっているように思われたのでした。
それでいつも、現に!これまで何度も、「銅メダル」=「とじこもり」だったのですが、それはホントに、ある一つのことについて、それが「言えない」と思うと、その他全てのことについても、もう何にも言えない、もう話なんて何もできない、(ひどいと、もう別れよ…という気分に、おそらく実際の「問題」はぜんぜん違うとこにあるのに)という状態になっていたのでした。
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「怒り」ということで考えてみるなら、おそらくは、ちょっと難しいところもあるような問題かもしれません。
怒りをぶつけても、黙っているよりはいいか、それとも、冷静になれずに怒りをぶつけてしまうよりは、黙っている方がいいか。
「怒っちゃダメ」という言葉は、怒りを内側にためこんで内側を責めさせるようなものにもなりうるんだと思います。そのことがとっても「毒」な状態で、それよりはだったら怒りを出した方がいい、というのは、ぜんぜんありそうなことに思います。自分の経験をかんがみても。
今回はここまでとしたいと思いますが、この問題って、自分の教会での経験のことを考えるときにも、かなり重要な問題そうな気がしています。(ちょっとだけ言ってみるなら、集団においては怒りを露わにすることよりも、ただ黙って従う方がよいとされる場合があって、そのことが実は怒りのエネルギーを内側にためこませてしまって、というような…)
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黙っているのと怒りをあらわにするのと、どっちがいい?
黙っているより、怒りをあらわにした方がいいときもあるんじゃないかしら?
てな話でした。