Hajime notes

謎を食べて生きる

言葉の「はばかり」について

 ブログを始めましたが、それは自己紹介にも書いたように、SNSで長い文章を書くことがあるからでした。具体的に言えばFacebookとかですが、なんとなく、「雰囲気に合わない」ような感じがしたり。

 その前は(今も)mixiを利用していて、それも最初は、永井均先生のゼミに無所属生として通っていた頃、永井ゼミの関連の方々の間でmixiの利用が始まったからでした。たしか永井先生からやってみれば?とお誘いを受けた気がします。

 最初は自分で何かを書くのも全然していなかったと思いますが、そのうち恐る恐る書き始めた気がします。

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 と、思い出すことをつらつらと書いてしまおうかと思いますが、高校の時に山岳部に入っていて、そこで「部誌」という存在がありました。活動日誌よりももっとどうでもいいような存在で、単なるノートにみんなが好きなことを書いているというものでした。

 最初はその「部誌」の存在も、すごく「恥ずかしかった」ような記憶があります。周りのみながどんなことを書いていたかというと、まあ、こないだこんなことがあったとか、好きなモノ、音楽、場所とか、まぁそんな感じでしょうか。(だからそれがいたって「普通」かもしれないことなのに、なぜそんなに「恥ずかしい」ことなのか、ちょっと謎なことでもあります。)

 だけどなんか、「一念発起」というのはちょっと違いますけど、なんだか突然「キレた」かのように、そこに何かを書いた覚えがあります。「こんな恥ずかしい部誌に書いてます」という、自分の書いた文言の記憶があります。

 その後は各々わりと「地味」めな(男子)部員たちも(笑)、それぞれの「創作」めいたことを書くようになったりして、思えば「部室」における「部誌」の存在が、かなりのウェイトを占めるものになっていったような記憶です。

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 さて、mixiまで話していました。
 mixiは永井ゼミの関連だったので、永井先生はじめ「哲学」の話題が多いものでした。(永井先生mixiの日記は書籍にもなっています。『哲学の賑やかな呟き』)それはそれでそれなりに「楽しい」(まぁ簡単に言っちゃえば)ものでした。

 そのうち、Facebookなりtwitterなりの存在も出てきはじめますが、自分にとっての「主戦場」はしばらくmixiでした。

 と言っても、最初は自分で何かを書くということもあまりしなかった(と思う)のですが、これもあるときから「書き始めた」ように思います。

 それに関してはまたちょっと複雑なものもありますが、というのは、まあいまやアレですが、このブログではすでに自分の実家である「天理教」のこともオープンにして書いていますが、当時は「天理教」なんていうワードはぜんぜん出す気になれなかったですね。「宗教」ですら。

 今から考えると、まあメチャメチャ「抑圧」があったんだろうなぁという感じがしますが。ですがある時に、このまま「哲学」を続けるのに、「宗教」(そしてひいては「天理教」)も、避けて通れないなと思ったことがあり、それについても「考えていこう」と思ったのでした。

 で最初は「天理教」なんてワードは出せず、「宗教」や「信仰」どまりだったと思いますが、それですらかなり「おっかなびっくり」だったと思います。周りからどう見えたかはわからないんですが。

 一度どっか(たぶんmixi)で書いたことあるんですが、「内臓」「皮膚の内側」が出てしまうような、ヒリヒリした感覚というのが、自分の「言葉」を出す際に伴うような感じも(ときに、ないしつねに)ありました。

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 さて、こう書いてみると、タイトルの「はばかり」ということですが、つまり、今でも、何か書こうとする場合に、もちろんそれを人の目に曝そうとする場合に、「はばかり」を感じるのですが、それはなぜだろうかということがあって、その理由ですが、おおよそのところは明らかなんですかね。

 つまり、以前の、強烈な「恥ずかしさ」、「恐る恐る」「おっかなびっくり」「ヒリヒリする感じ」がいまだその残滓が残っているということ。

 と言っても、もうそんなことすら書いちゃってるわけですから、周りの人から見れば、んなことぜんぜんないじゃん、てなことにもなりそうな気もします。

 一つ思うのは「過剰適応」の気味もあるんじゃないか、ということ。どうだろうな。

 やや難しく考えるとすると、以前「「勉強なんかできなくてもいい」について」で書いたような、「信仰について哲学することは悪魔のようなこと」なんでないか、というような問題にもつながるような感じもあります。

(あとは、もっと極端に「哲学風味」――あくまで風味――で言うなら、「言葉を語ることは全て嘘を騙ることだ」とでも言ってみたいような気もありますが…まぁでもこれとりあえずは「自己論駁的」ですよね。)

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 ちょっと行きがかりがてら、話を敷衍することにして、上のは言い過ぎだけど、「言葉を語ることは全てどこかはしたないものだ」くらいに「弱めて」やれば、どうでしょうか。何となく、シンパシー程度感じるものがありますが…。そのシンパシーからすると、だから「言葉を語るときには全て何らかの大義を持って語るべきだ」という規範的文言にもシンパシーが感じられます。

 そしてさらに、これを、「どうなんだ?」と考えてみたいわけですが。というのは、「哲学対話」なんかからも思うことですが、「会話」と「対話」という対比を考えることができるように思っています。「対話」とは、ある主題に関して、そこでの話の道筋(永井ゼミ的用語では「論脈」、あとはまあいわゆる「ロゴス」)を厳密に追いかけるようにして、なされるもの。「会話」とは、まあ雑駁に、そういう仕方以外での言葉のやりとりです。

 会話というのはだから、「無意味」というのは言い過ぎですが、上で使った言葉で言うなら、「大義」を持たない言葉のやりとり。言葉を使うときに、何らか「大義」があるべきでしょうか? そうでない言葉のやりとりは、単なる「くだらない」ものでしょうか?

 以前に「くだらない」ものの「意味」ないし「意義」について考えたことがありますが(それはまだブログ開設前で、各SNSに載せました)、まあ、「くだらない」ものは「無意味(無意義)」だからこそ、そう呼ばれるわけですが、意味(意義)のない言葉、言葉にならないような言葉を発することは「叫び」に似た効果があるんではないかな、という趣旨のことを書いた覚えです。

 まぁ、単に当たり前の、それこそつまらないことかもしれませんが…、までも「くだらない」まで極端に考えなくても――おそらく、いつもまず極端を考えようとするクセがありそうーー、会話ということで普通に考えれば、それはそれなりの意味(意義)を持っているように思います。例えばそれは「毛づくろい」みたいなものに似ているものかもしれません。で? それ以上の何が言いたい? 何かあるの? ……以前の記事のリンク(「会話」の意義について)を貼ってお茶を濁すことにいたします。(以上、脱線でした)
 
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 さて、「はばかり」の正体、何だろうか。

 わかりません。それでも、「はばかり」があるよ、と言って(書いて)みました。これは「外堀を埋める」感じでしょうか。「正体」であるところの「お城」「本丸」にはまだたどり着いた感じはありませんが…

 が、しかし、「ゼロ」を目指さなくてもいいのかもしれませんね。

 いずれにせよ、ボチボチやっていくことにします。