Hajime notes

謎を食べて生きる

結婚

 結婚しました。ブログの更新が滞っていたのですが、結婚について、書きたいなと思う気持ちもあり、でも何を書くか、書けない気持ちもあり、たぶんそんなのが理由の一つです。

 さて、かねてから交際していた恋人と結婚したわけですが、結婚ということで、一緒に生活を始めました。共有する時間が増えることで、当然、互いへの知見も増えます。

 そんな中で一つ、信じたくなっちゃうのが、「全てのことが発見に満ちている」ということ。これは、「信じていること」ではなく、「信じたいこと」でもちょっとなく、一番正確そうなのが「信じてしまいそうになること」。

 さて、もちろん、そんな時ばかりではないのです。「きっとどこかに発見がある」、そんな“意味づけ”が何も働かないような、そんな気がする時もやって来る。辛抱の時。それを越えて、“意味”を見出した(ように思えた)時の喜び。

 というわけで、さまざまな発見や熟成の日々を過ごしていたために、そしてそんな発見を言葉にする暇もなかったために、の、停滞だったかもしれないのですが、しかしまた、その、言葉にすることのできない、あるいは言葉にすることが追いつかない、そんな発見ということ。

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 以前に天理教バーをやったイベントバーエデンの店長宮内さんが、イスラムの信仰の半分は結婚にある、と言っていたことがありました。あと半分は何かたぶん単に聞いてないですが、ともあれ、これはちょっとふんふんと思うものがあった。上のことを考えたときに、ふと思い出した。

 性と生殖。人間の、身体、あるいは、自然に根付く側面。自然は、それを言葉で把握することもできるが、しかし、言葉とは独立に、それ自体で存在し、それ自体の動きを持つもの。精神は、なぜかそれに根付いてもいる。一方で、精神のもう一つの領域としての言葉の領域。

 人間社会を、動植物の生態系のようなものとして眺めることができるんじゃないか、と思ったことがありました。倫理的生態系の学、と呼んだりして。人間社会の構造、その本質の洞察。「全体」への視座。もしかすると、これは、宗教的なビジョンかもしれないな、と思ったりします。いやたぶん公正に言おうとするなら、宗教的とは限らず、非宗教的なそうしたビジョンもあるのでしょうが、また宗教は単に歴史的にそれ(ビジョンの提示)を担うことがあっただけなどと言うこともできるのかもしれませんが、個人的な感懐としては、それ(「全体」への視座を提供すること)は宗教的なことだよな、と思うものがあります。

 宗教とは何か。それがまず第一義的に「真理」に関する事柄であるなら、その「真理」とは、先に述べた「全体」(への視座)に関わるものに思えます。しかし、その「真理」は、事の本性上、その確然的な証明がありえないような真理なのだろうと思われます。であるがゆえに、それは「語りえない」事柄に属す。

 ここで、先ほどの、性と生殖、あるいは結婚、そこにまつわってあるように思われた「発見」、それが「語りえない」こと、そのこととつながってくるように、思われる。いわば二つの「語りえなさ」がある。それらを対照的に考えるとすると、いわば、上への語りえなさと、下への語りえなさ。神の事柄は、上に語りえなく、そして、何と言うのか、身体・自然(精神の自然的側面)の事柄は、下に語りえない。

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 先に「信じてしまいそうになる」と呼んだのは、「全て発見に満ちている」という事柄でした。さて、これは、「信仰」に似ていないか。「発見」という“意味”を信じること。これが「信仰」であるとすれば、そこにおける「無信仰」もまたあるのではないか。とすればそれは何か。

 上への信仰と、下への信仰。上への信仰における「無信仰」は、世界「全体」の意味を信じないことだろうか。とすると、下の信仰における「無信仰」は。「生活」の意味を信じないこと? 「愛」の意味、「愛」を信じないこと?

 私は、信仰したいというよりは、信仰について知りたいと思っていて、つまり信仰について哲学したい、と思っている。それで、信仰についてと同時に、無信仰についても知りたいと思っている。では、愛についてはどうだろうか。私は、愛したいというよりは、愛について知りたいと思っていて、つまり愛について哲学したい、と思っているだろうか。(だから同様に、愛の無さについても知りたいと思っているだろうか。)愛することと、愛について知ることは、同じことだろうか。それとも、ここで比べるべきは、愛することと、知りたいと思うこと、つまり知ることを愛すること、だから哲学すること、それらのことだろうか。

 いやしかし、愛したいということと、愛することは、違うだろう。それでもちろん、信仰したいと、信仰する、も。愛したいなんて言ってる間に愛せばいいじゃん、て感じがする。「愛されるよりも~愛したいマジで~」という流行歌の歌詞が思い浮かんだ。マジでそうだよね~ワライ

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 性的な快楽が何であるのか、なぜそれが快楽であるのか、このことは「語りえない」事柄に属すのではないか、と思うことがある。より一般的に言うなら、つまり、身体、精神の自然的側面における事柄。だから同様に、例えば、食の快楽についても。もちろん、美食的批評的な「語り」がその「何であるか」を解きほぐしていこうとすることも、可能ではある。しかし、どこまでも降りて行けることと、一番下に達することができることは、違う。いやこう言うべきかもしれない。そこでは、「語り」になりうるような「理由」は底をついてしまう。「理由」が底をついて、それ以上に知りたいと思う「理由」を提供できない。(ここでは、あの、「規則のパラドックス」が連想される。ウィトゲンシュタインはこの底つきを「岩盤で鋤がそり返る」と表現している。)
 ――下への語りえなさ。

 宗教については、その、人間社会的、組織的、制度的な側面も気になる。倫理的生態系の学、と言ったが、ビジョンを提供するものも、そのような生態系の一部でもある。生態系の中で、ビジョンを提供するという役割を担うもの。宗教に喜びがあるとすれば、それはやはり第一にはビジョンの「真理」の喜びで、それはビジョンの比喩をそのまま通して言うなら、見る喜び。(宮内さんがブログで、宗教・信仰の喜びの第一を「真理」にあるとして挙げていたと思う。これも示唆的だった。)
 さてでは、見る喜びだけでなく、行う喜びもあるだろうか。もちろん、そうなんだと思う。(ここでは、宗教、その社会的側面、について考えている。)「弱く虐げられた者に仕えること」だったか、そんな言葉を聞いたことがある。それもそうなんだろう。しかしたぶんそれは、ビジョンに裏打ちされてこそ、という側面もあるだろう。
 配偶者との生。これが信仰の半分なのだとすれば、どうか。もちろんそれが行う喜びであるなら、良いだろう。しかしこの「近さ」においては、おそらくはそれより遠くにいる「弱い者」に対するよりも、より、ビジョンなどなしにできるものがありそうではないだろうか。自然に赴くままに、などと、単純には言えそうなもの。
 ――「見る」に比しての「行う」。「近さ」と「遠さ」。

 「全体」のビジョンと、そうでない、あるいは盲目的にも見える、ミクロな、この単なる「見え」、そういう意味での小さな、極小のビジョン、その二つの、極大と極小のビジョンが、何らか、相即すること。これは何か、ありそうなことに思えて、しまう。これは信仰的なことだろうか。〈私〉が〈世界〉(「全体」)につながること。ここに「信仰」があるとすれば、先に「信仰」について言ったこと、全体への視座、特に全体の“意味”ということと、これは、どう関係するか。
 また、これがその信仰の「ある」ことなら、その「ない」こととはどういうことだろうか。それが無信仰ということだろうか。
 ――〈私〉と〈世界〉。“意味”。……

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 というわけで、妻に。これからもよろしくね♡