Hajime notes

謎を食べて生きる

路上哲学日誌18/9/10

 ひさびさの更新。路上哲学、street philosophyに行ってきました。

 まずは時系列的に振り返ってみたいと思います。

 少し前に、ストリートミュージシャンはあるけど、ストリートフィロソフィーってあんのかなーとか考えてました。哲学カフェとかの哲学対話の活動にも参加したことがあるけど、もう少し別の形で、ストリート(路上)での哲学対話だったらどうなんだ、みたいな興味もあって。じゃあともあれとりあえずやってみるか、ということで、場所は電車で一本、大都会の渋谷へ。

 途中、スケッチブック等、道具の買い出しで百均へ。あと、大道芸人よろしく投げ銭も募る感じでいこうかなと考えてたので、投げ銭箱も探す。虫かごがフタもついてちょうどよさそうだったので虫かごと肩ひも用のリボンを購入。レジのおばちゃんにむき栗を勧められ、断るも、あ、お菓子いいかもなと思い、配布用にマシュマロを購入。

 さて、ハチ公前の簡易ベンチのとこで、準備。スケッチブックには「路上哲学やってます。あなたの謎教えてください。Street philosophy now. Tell your enigmas.」と書く。書くのにも勇気、そこから踏み出すのにもまたなかなか勇気がいる。

 なかなか踏み出せないでいると、英語で話しかけられ、ここでご飯を食べても大丈夫か?と聞かれたので、大丈夫と答える。ややあって、一人目はその人に話しかける。In English。 スウェーデンからの旅行者で、Janiさん。

 まあ趣旨は理解してもらえたようで、meaning of life(人生の意味)や infinity of space(宇宙の無限性)について疑問に思う、と。問いの形にしてくれないか、とお願いすると、「What is God?」としてくれた。スケッチブックに記入。神は存在するかという問いとは違うよ、と言ってた。存在するとかしないとか、それは何について言っているのか、ということらしい。街頭で宗教の話をすることは大丈夫か?スウェーデンでは大丈夫だけど、とも気にしていた。マシュマロを渡す。こちらの問いも尋ねられた。「言葉はなぜ意味を持つのか Why does language have meaning?」。それから向こうがセルフィー(スマホの自撮り)を求めてきたので、オッケーする。今頃どこかのSNSに上がっているかもしれない。君がまだやっていたら後でまた会おうと、別れる。

 ボランティアだろうか、おばさま方3人が掃除をしておられ、スケッチブックを見て、勉強してるのねぇ、のような反応。ついでに話しかけ、何か謎はと尋ね、「これからどうなっちゃうのか」「何がですか?」 結局問いとしては「これから世の中どうなるのか」としてスケッチブックに記入。税金払ってきたのに国に将来を任せておけるのか、自分で何とかしなきゃいけないのか、とかいうことみたい。

 さて、スケッチブックのメッセージ片手に、歩いてみる。やっぱり面映いものがある。交差点を渡って反対側へ。女子二人連れに声掛け。高校生。えー謎なんかなーい、みたいな。今日は武道館へライブに行くとのこと。楽しんできてくださいね、でお別れ。

 壁際に立っていた金髪の日本人女性に声かける。最初は拒否され、いったん引き下がって、再度アタック。そこから意外と話が続き、もらったお題は「人はなぜ人を欲するのか」「なんで一人で生きられないのか」(アサミさん)。自分の方の問いも尋ねられたので、しばらく考え、「なぜいまはいまなのか」。

 結局「なぜいまはいまなのか」で30分以上話したろうか。その内容も書くべきかな。なるたけ簡単に。「これってどういう意味?」「2018年が今で、2008年は今じゃない、どうして2018年が今なんでしょう」。「時間が動くから、2008年は今じゃなくなった、ってことじゃない?」「「時間が動く」ってどういうことでしょうね?」「現在のインプットがある。それは過去になる。人は新しいものを求めているから、次々に新しいのが来る」「いま言ったことって三つの別のことでしょうか、例えば、現在のインプットだけがあって、新しいものが来ないというのは考えられますかね? あと、求めてるから新しいのが来るんですかね、求めなくても来る気はしませんか?」「待って、そもそもの問いが何だっけ、うーん、なぜ今か、今を生きるのが人間だから、じゃダメかなぁ」「過去に生きるとかってありうるんですかね?」…「わかんない、むずかしい。でも楽しいかも」。頃合いを見て、「この辺にしときましょうか」。

 最後別れる際「楽しかったよ」と言ってもらえたので、「お気持ち」の方もお願いしてみる。小銭を入れてもらう。やた。

 終わってボーっとして、吉野家へカレーを食べに。

 その後ハチ公前の辺で何人か声をかける。座っていた男性は拒否。若い女性二人から「ハチ公前のトイレはなぜくさいのか」。「そういう問いもいろいろ考えられると思いますよ」と言ったけど、問いをもらうだけで終わり。マシュマロ渡す。若い男性(コバヤシユウさん)から「男女の友情関係はなぜ築かれないのか」「人はなぜ生まれたときから決まった成長をするのか」。マシュマロ渡す。さっきの女性たちも、いきなり問いと言われてもねえ、という反応はあり。コバヤシさんは、なんか願望みたいのになっちゃうなぁ、とも。フムフム。問いを作る、自分の中にある何かを問いの形にするというだけでも、一つの労力、一つの作業かもしれないもんな。

 あとはまた女子高生二人、だいぶ怪しまれてる様子で何もないです的反応。他に、お兄さんが謎です的な反応をもらった女性二人もいた。「はは、そうですよね」。(でもこれも実はちゃんと問いにしてもらうこともできたのか。「なぜ路上で声かけるのか」「路上で声かけるのはなぜ奇妙なのか」?)

 昼過ぎから初めて、そろそろ4時。雨もちょっと降ってきており、ああもう疲れたかなーということでボーっとして、じゃあ帰るかなと。また来てみたいと思えたら来てみるか、てな感じ。

 もらってスケッチブックに記入した「問い」は5名からもらった6、7個といったところ。声かけしたのは10人くらいか。

 収支。支出(道具、交通費、昼食)1338円。収入244円。差引、-1094円の利益!(笑)、と。

 *

 さて、あとは自由に振り返ってみる。

・どういう形式で行うか、いろいろ練る余地はありそう。とりあえず、問いをもらう、時間があれば一緒に考えてみる、でやってみた。

・もらった問いをスケッチブックに記入して「貯めていく」みたいなのは自然発生的にそうなった。問いを尋ねるのに「謎」という言葉を使ったが、どうなんだろう。「問い」の方がやはり普通かもしれない。

・こちらの問いを聞かれたり、他の人はどんな問いをという反応もあったりしたので、ここも考えどころかもしれない。お互いに問いを交換する、みたいな観点。交換の相手は、一つは自分と、もう一つは、自分が声をかける人同士の。

・声をかける人同士の横のつながりについて。実際一人かまあ二人連れくらいのグループに個別に声をかけるわけなので、通常は、その人たち同士の横のつながりは、ない。スケッチブックを見せるという仕方で、前の人の出した問いを見せることはできる。でもそれだとかなり限られた感じ。

・今回は結局お一人くらいだけど、問いをもらった後の、対話における個別性(つながりのなさ)も。哲学カフェなら、多人数の多様な観点が出てきうるけど、やはり一対一の対話になりそうで、そこでどの程度柔軟に応答できるかという…。いやもちろん、「柔軟に」応答するのが望ましいかどうかという点から、考えうるけど。

・場を作る、横のつながりを作る、という点で、ネットの利用は考えられる。ブログとか、SNSとか。それらの存在を路上での話題の中に最初から組み込めるとしたら、また違うかもしれない。あとはもっとyoutubeとか。路上哲学チャンネル、でyoutuberデビュー(笑)。一人だとむずかしいような気がするな、カメラマンさんが必要そうだよなー

・自分の問いを持っていく、それを問いかけてみる、というのも考えるに値する点。そもそもの、自分が哲学をすることや、人と哲学対話をすること、それらの意味に関わる点。

投げ銭はどうなのかなー。せっかく「楽しかったよ」と言ってもらえたのに、お願いまでしてしまって、悪くなかったかしら。改めまして、アサミさん、ありがとうございました。

・銭の話に戻せば、何となくそういうゲンキンな回路を持っておく方がよいような気もする。永井均先生もツイッターでそんなことを言っていた。「要するに、哲学対話のようなことをする人が金銭的価値を超えた何か特別に大切なことをしていると思い込まないことが大事、ということです。」(@hitoshinagai1) https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1034240764014784512

・コバヤシさん(その他の方も)の、いきなり問いと言われてもなぁ、願望みたいになっちゃうかも、という反応も、一つ考えうる点かも。普段から問いを抱いているという場合は少ないかもしれず、問いの形にするというのはそれだけで一つの労力、一つの作業かもしれないわけだ。とすると、そこで「問い」の形にするということにこだわるのがいいのか、そうでないのか。「問い」の形にするのは哲学に必須の作業だろうか。

・あとは何と言っても、多くの人に声をかけること、それだけでパワーがいる。友人から、公共空間ではお互いに無視し合うマナーがあるのでは、という指摘をもらったけど、そうじゃないかと思う。(社会学で「儀礼的無関心」という用語がある。)そのマナーを破るところに、パワーがいるんだろうし、またここには「暴力性」みたいなのも考えうるんだと思う。しかしまあ、もともとそういうことへの関心も自分の中に含まれていてのことだけど。

・ちょっと敷衍してみたい。哲学カフェ等の哲学対話の活動は、そもそもが学校・大学(アカデミズム)等の権威の相対化の運動だったかもしれない。では、哲学カフェでは権威が無になるかと言えば、たぶんそんなことはなく、いかなるものであれ、集団を組織することには必然的に働く権威性みたいのがあるんじゃないだろうか。そこででは、路上みたいなところだったらどうか。そこは何の権威の介在もなく、個人と個人が裸で出会うところだろうか。
 裸の出会いとは何かということも問題だけど、それは措いておくとして、路上が裸の出会いかといったら、たぶんそうじゃない。そこは公共空間で、様々な力(権力)によって秩序が保たれているように思われる。無秩序の例としては、極端かもしれないけど、さりとて典型でもあろうものとしては、犯罪がある。そこまでいかずとも、まあ通常のレベルにも、儀礼的な、マナーとしての無関心があり、そこを破るのは、ある種の無秩序や暴力性でもありうるだろう。
 さて、一方に権威性の高まりがあって、もう一方に権威性の低まり、無秩序・暴力性みたいのがある。こんな感じの力学をどうなってるのか見てみたい、みたいな関心もありました。そしてもちろんこの中で「哲学」というのがどうなるのか、どう働きうるか、みたいな。

・と、こんな関心もあったりしたので、あとまあ普通に哲学対話の仲間・先達として、哲学カフェとかも参考にしたいところかもしれない。自分でやるのも含め、視野に入れたい。上で言ってた場作りとも関連する。路上とカフェの両輪とかもありかもしれない。ただまあここでは、上でも少し触れた「自分の問い」との関連も忘れたくないところだ。

・(この項は後から編集にて補足)実際の路上活動では、まあ慣れていないということもあるだろうけど、圧倒的な情報量に晒される感じがある。そんな中で哲学対話だったり、上記のような関心を持って、自分の関心に関わる情報にフォーカスするのは、かなりの技術というかを要する気がする。ここら辺は、「前線」を退いた後の「銃後」における作戦の練りどころだろうな。ただでもその、圧倒的な情報量におけるところの、即興性、これもきっと醍醐味にちがいない。

・後半、長く話し終えた後に、声を張ることがむずかしくなったかも。のどパワー。

・あと、発展形として、土地柄の選別とか。とりあえず渋谷はいっぱい人もいるし、ヒマしてる人もいそうと思ったので(あとまあアクセスがいいので)行ったけど、そこはいろいろ試す・味わう余地がありそうだ。

 さて、全然まとまった感じじゃないけど、とりあえず。次回はあるのかなー笑