Hajime notes

謎を食べて生きる

暴力・愛・祝祭――映画『HOMIE KEI~チカーノになった日本人』より

 『Homie Kei~チカーノになった日本人』。高校の同級生がカメラマンをつとめたということで、お知らせを受けて、先行上映会に行ってきた。元ヤクザでアメリカの刑務所に服役経験がある、Keiさんという日本人の姿を、7年間くらいかけて追ったドキュメンタリー映画

 一度SNSで、少し紹介を投稿したのだけど、何となくもう少しいろいろ書いておこうかという気がしてきて、こちらで書いてみることにした。いたって好き勝手に書いてみたいと思う。

 ひとまず、某SNSではこんなふうに書いた。

高校の同級生がカメラマンをつとめた映画だそうで、お知らせを受けて先行上映会に行ってきました。
元ヤクザでアメリカの刑務所に収監経験のあるKeiさんという日本人の姿を7年間くらいかけて追ったドキュメンタリーです。

「暴力」というと無秩序なものと考えがちですが、無秩序の中にも固有の「ロジック」を持っているような気もして、そんなところに興味がひかれます。(「プロ」の「実践知」というのが、ある?)

Keiさんと昔からの友人たちとが、昔したワルいことを語るのが、妙に楽しそうで(Keiさんはそうでもなさそうだったかな?)、なんとなく印象に残っています。ワルさの語りが楽しいってのは、これ、でも、なんとなくわかる。なんなんだろうな。

上映後にトークショーがあって、ゲストは元ヤクザで今牧師の進藤龍也さん。ざっくり言ってしまえば「昔悪かった」というやつですが、私の父も、宗教家でしたが、このアイデンティティを持っていた気がします。「神に仕える(使ってもらう)」、摂理によって物事が「なってくる」、たいていのケースが親との関係に問題がある中で一番は「夫婦が仲良いこと」、なんか父の言葉と重なったりもして、個人的に少々感慨深かったです。

 

 

 さて、「暴力」のロジックに興味がある。ひとまずは「法」を境に、その内と外というものを考えることができそうだ。「アウトロー」という言葉は「法の外」という意味だと思うけど、この観点からその存在に関心を引かれる。

 しかし、法を基礎に考えるとすれば、その法の制定権力のようなものとしては、国家権力なりの方が、もちろんより強大で基礎的なものだろう。アウトローは、その法の制定がまずあった上で、そこから「はみ出る」ものとして考えられる。

 ここで映画の話に戻ってみると、アメリカの刑務所は、その収容者の犯罪の度合いに応じた収容レベルのようなものが5段階ほどあり、上のレベルにおいては、実質的に無法状態にあるというような話があった。例えば、長い刑期に服していて、実質的に出所の見込みがないような囚人にとっては、所内で殺人を起こしてさらなる刑が加算されようが、ほぼ制裁としての意味はなく、よって「こわいもんなし」となる。

 と、そのような話を、先に言った、法から「はみ出る」ということとの関連で考えてみたい。法からの「はみ出し」は、法の外に出ると言うよりは、むしろ、法の中にあった上での(刑務所という「法の中」)、何らかの逸脱のことかもしれない。一つの法が支配する領域を一つの全体社会として考えてみれば、その全体社会の中に各種の中間的な社会や集団があり、「はみ出し」はそこにおけるもののことではないだろうか。

 

 最近、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)を読んだ。そこで取り上げられているのは学校におけるいじめだが、これをモデルケースにして、さまざまな中間集団における「いじめ」の構造・メカニズムを解明することが目論まれている。

 内藤によれば、単なる単発のものでない、集団的・継続的ないじめが起こるのは、中間集団における「群生秩序」においてである。この「群生秩序」は、上記の刑務所内の「無法状態」と類比的に捉えられるのではないかと思った。

 「群生秩序」においては、それに特有の倫理・規範が存在する。その倫理・規範の下では、例えばいじめることは、それほど悪いことではない。それどころか、ある種の善いことでもある。

 刑務所内での「ルール」として、Keiが、「謝るよりは死んじゃった方がいい」と語る場面がある。こんなのも、その中間社会(刑務所内は全体社会の中に位置する一つの中間社会だろう)における独特の倫理・規範を示したものとして、受け取れる。Keiは、その独特の規範の中で、その規範に沿った才覚を示す人物だった、と考えることができる。

 

 さて、とりあえずは、「アウトロー」が、その字面上は「法の外」を意味するとしても、実際は、一つの法の支配域である全体社会の外ではなく、全体社会の中に位置する中間社会における存在なのではないか、ということであった。

 しかし、ヤクザ等の「アウトロー」は、これとは違ったイメージで語られることがあるのではないだろうか。つまり、字義通り、法の外にいて、何でもできる「こわいものなし」であるかのようなイメージで。(このイメージはイメージで、例えば恐怖を煽るなどの効果に利用されうるのだと思う。)

 ここには、中間集団、中間社会といったものが、実質的に及ぼす影響力というものがあるのだと思う。内藤も前掲書で、「中間集団全体主義」という概念を提唱している。中間社会と全体社会のどちらが、成員に及ぼす実質的な影響力が大きいか、これはそう単純ではないのだろう。

 

 

 さて、ワルさの語りについて。映画の中で、Keiと旧友たちとが、昔のワルさについて語る場面がある。妙に楽しそうではなかったか。ワルさの語りが楽しいものであること、このことには、何らかの真実が表れていそうに思える。

 内藤は、「群生秩序」において、成員が互いの暴力を讃え合うという現象を記述している。おそらく群生秩序の中にも様々な種類がありうるのだろうが、暴力の讃え合いがあるということについては、とりあえず、その集団において暴力に何らかの価値が置かれていると考えてよいと思われる。

 しかし、ワルさ一般ということで考えると、このことは狭義の「暴力」に限らないものに思われる。おそらく、さまざまな中間集団に固有の「ワルさ」がある。(例えば、大学院等で哲学を学んだが、そのような集団に固有の「ワルさ」も、あるように思われる。)その「ワルさ」とは、おそらく、全体社会における倫理・規範とは異なる、その中間社会に固有の価値のことかもしれない。こう考えるならば、その「ワルさ」を語ることによって、中間社会の成員同士は、お互いの結束を確認し合っているのかもしれない。平たい言葉で言い換えてみれば、ワルさの語りの楽しさとは、内輪ウケの楽しさである。

 しかし、もし仮に、その中間集団が自分たちだけに通じる固有の価値を超えて、全体社会(ただし、上では「全体社会」を一つの法が支配する領域として考えていたので、「全体」とは言っても、世界全体ないし人類社会全体から見れば、その下位領域である)に通じるような何らかの普遍的な価値を標榜する場合には、話が異なるかもしれない。その場合には「内輪ウケ」が真に楽しいものとはならず、その楽しさは、中間集団内の固有の価値と、それが標榜するはずのより普遍的な価値との間で、ジレンマを起こすかもしれない。(なんとなく、Keiはそれほど楽しそうではなかったような気もしたのだが、こういうことが読み込めるかもしれない。)

 

 映画の一つの柱は、「家族」であった。「家族」は一つの中間社会と考えうるだろうが、これも上記のようなジレンマに晒されうるだろう。だが、「家族」には、さらなる特殊性があると考えることもできるかもしれない。つまり、いわばそれは「内輪ウケ」だけで構成されている、ということ。というのは、それが、何らかの普遍的・客観的な価値や理念でもって構成されてはいない、ということである。この一方で、「家族」における価値は「愛」だと言われるかもしれない。この両方を突き合せて一つの矛盾ない見解を組み立ててみるなら、こうだ。すなわち、家族間の「愛」は、普遍的・客観的な価値ではなく、「語りえないもの」に仮に与えられた名である。こう考えると、何らかの、語りうる、客観的、普遍的な価値や理念は、必然的に「愛」とは敵対的なものになる。

 Keiが刑務所でその仲間となったメキシコのチカーノ・ギャングたち、その集団は、一つの「家族」であると語られている。「家族」に関して述べた上述のような〈必然的〉なジレンマは、これらの集団にも同様に当てはまるかもしれない。また、「愛」のように、語りえない価値を持つ中間集団も、同様なジレンマを経験するかもしれない(例えば、「信仰」の共同体)。……しかし、それとも、あらゆる中間集団に、この種のジレンマ(つまり、単純に言ってみれば、「愛」と「普遍」との)がある、と考えるべきだろうか。

 

 

 SNSでは書かなかったが、もう一つ、ある身体感覚について。刑務所内が実質的な無法状態だと語るKeiの言葉に即して、そのような状況を想像するに、たしか、腹の辺りがゾワゾワするような感覚を覚えた。自らにいつ暴力が襲いかかってくるかもしれない状況。恐怖や不安の感覚かもしれないけれど、不安一般とは区別できる、特有の感覚であるかもしれなかった。この感覚に耐えて、過ごす時間を考えると、これまた、恐怖や憂鬱の感覚を覚えたりも。

 これ以上のことは話が今の所広がらないけれど、何かしら特徴的な感覚で、何らかの興味深さはある気がしたのだった。もしかしたら、以下で書く、「何でもなさ」「退屈」のこととつながるかもしれない。つまり、このような身を震わされるようなことは、転じて「楽しさ」でありえ、「退屈」をなくすようなことでありうる、というようなつながりで。

 

 トークショーゲスト進藤さんの、元ヤクザ、今牧師という肩書。「昔は悪かった」というアイデンティティ。これは、個人的なことで、亡父を思い起こさせるものであった。

 ここから、突飛かもしれないが、あるいはもしかしたら重なるかもしれないことで、思い起こすものがあるが、それは「何でもない」ということ。あるいは、日常生活、ないし、あるいはいわゆる平凡な市民生活のようなものの、「退屈さ」のようなもの。

 暴力にはある種の「派手さ」がある。別様の、もっとかしこまったような言い方で言えば、「祝祭性」があるように思われる。もっと単純な言い方で言えば、暴力の「楽しさ」。

 Keiさんも、そしてトークショーゲストの進藤さんも、そして、宗教家であった亡父も、関わっているであろう「支援」という文脈がある。進藤さんがトークショーで仰っていたが、つぐないのためだけの真面目さ・更生は、いつか燃え尽きる、バーンアウトしてしまう、と。おそらくは、それ自体に楽しさがないような活動は長続きしないという意図の発言であったかと思う。

 ドラッグ依存等のことなども思い起こすが、「支援」において、「暴力」が持っていたであろうような、あの「楽しさ」「祝祭」との関係性を考えることは、本質的なことではないかなと思う。いわば、アレに匹敵するような「楽しさ」「お祭り」がなければ、長続きしない、という。

 

 私であれば、例えば、「哲学」は、そうした「楽しさ」「祝祭性」を持ちうるものだと聞いて、なんてそれは(よいことだろう)、と思ったのだった。ここには「暴力性」も本質的に関わるかもしれない(例えば、何かを破壊すること)。(そしてまた、このことは、哲学にとって、もしかしたら「不純」なことかもしれない、とも思うが、これはまた別のことである。)

 そして、「文化」の中にはこうした「暴力的な楽しさ」を持つものがそれこそたくさんあるのだと思う。たぶん。これとの関係性を考えることが「支援」にとって、きっと本質的なことだろうと思う。単純に言ってしまえば、被支援者を「文化」へ導くこと、であるが、そう単純に言ってしまってよいのか、まだ私は知らない。(もしかしたら、ここで引き合いに出すべきは、文化の、あるいは生活の、「平凡な楽しさ」かもしれないが。)

 

 

 最後に、まとまらないながら、一応まとめておこう。たぶん、三つくらいのことを書いた。一つ、「暴力」の存在論について。それは「暴力」と言っても、ある種の組織的暴力のことだと思うが、その社会の中での位置づけについて。いわゆる「アウトロー」を、「法の外」ではなく、「法の中」の中間集団であると考えた。もう一つ、中間集団の持つジレンマについて。集団内における「愛」と、外の普遍的価値とのジレンマ。もう一つ、「暴力」の楽しさ、「祝祭性」について。それらの、「支援」との、あるいはまた、支援が接続するものであるはずの、文化的な暴力性、あるいは生活や文化の平凡さ、退屈さとの関係性。

 

 最後に宣伝の一端を担って。2019年4月26日よりヒューマントラスト渋谷で公開だそうです。ご関心のある方はぜひどうぞ~(^_^)/

 

【追記:当初のタイトルは「『Homie Kei~チカーノになった日本人』を観て」でしたが、後から、自分が何を書いたかを振り返ってみて、書いた内容に踏み込んだ「暴力・愛・祝祭――映画『Homie Kei~チカーノになった日本人』より」というタイトルに変えました。2018.12.14記】