Hajime notes

謎を食べて生きる

「これは何か」

 最近は「これは何か」という問いについて考えています。――しかし、ただそう問われただけでは、おそらくもちろん、「これって、何のこと?」と問い返したくなるはずです。

 この問いに出てくる「これ」とは何でしょうか。もちろん考え方次第で、その「これ」はあらゆるどんなことにも適用できる、と考えることもできます。

 とはいえ、ひとまず私としては、「私の目の前のこれ」と言ってみたいです。あらゆるどんなことに対しても適用できるであろう「これ」ではなく、その、問うときに、何かしら現に存在しているであろう、「これ」。

 

 

 哲学を志したきっかけは永井均先生の著作(『〈子ども〉のための哲学』等)によるところが大きく、永井先生からは大きな影響を受けています。永井哲学で有名なのは〈私〉(山括弧の私)ですが、上で述べた「これ」は、〈私〉と通じるものがあります。

 永井先生の近年の主著である『存在と時間 哲学探究1』でも、159ページに「これ」の話があります。

 永井先生は〈私〉とならんで〈今〉も類比的に論じています。いわく、〈私〉や〈今〉は存在するが、実在はしない(事象内容を持たない)。

 

 この関連で述べると、「これ」は〈私〉や〈今〉と通じるところも持ちつつ、それらとも違う、という方向で考えています。

 

 

 違いの一つは、「これ」は、あまりに漠然としていて、何のことだかわからない、という点。上では、「ひとまず「私の目の前のこれ」と言ってみたい」と書きましたが、ホントウにそれでいいのか、そう言ってしまっていいのか、わかりません。

 しかし、だとすると、そんなどう言いようもないものが「問い」として成り立つでしょうか?

 とはいえ、思うに、(と言われるらしい存在)の目の前(と思われるところ)に起こっている(と言われえ、そしておそらくまた「次々と起こってくるであろう」とも言われうる)もの、この「これ」が、それが私だとか今だとか言う前に、それすらわからない状態での「何だ?」という問いが成立しうるのではないか。――答えがありうるかどうかはともかく、そこで問いが成立しうるかどうか、これがまず重要ではないか、そのことを認められさえすればしめたもの!!……?

 

 ともかくあるこの「これ」、これはいったい何なんだろう? というこの問いに、より切迫してみたい、というわけです。

 

 

 これを書く前に「たくさんある」という問いについて書こうとしていました。
 そう思ったのは上の問いとの関連からですが、いわば、で言ったような「これ」は、その中に、なんだかともかくたくさんのものがある、それは何なのだろう、なぜ「たくさんある」のだろう、という問い。しかし、なんとなくやや奇を衒った感じもしたので、より根本的な最初のところから書いてみました。
 「たくさんある」についてもいつか書けたらよいかもしれません。