Hajime notes

謎を食べて生きる

母と話す、二つの症候について

 以下は、母と会った話、そこでした話の話で、天理教関係話、間に少し組織論的な本質論で哲学風味、最後に(純)哲学(たらんとす)。

 

☆☆ ☆☆ ☆☆

 

 昨夜は母と会って話した。六本木。国立新美術館にて、教会関係の方の絵画展示があるとのこと。私は時間が間に合わず、外で待ち合わせ。どこかで食事を、と。

 移動しつつ日高屋があったのでここにしちゃおうかとするも(そういえば教会の○○くんがよく行きたがるのよね)、携帯の充電ができるところがいいとのことで、モスバーガーへ。

 たいていどの人ととも、かもしれないが、久しぶりに会って話す場合、最初は、なんだか、気恥ずかしい。――と、これは、その後弟のバーに行ったときには、弟妻、そのまた下の弟、他初対面含め数人がおり、酒のせいもあるか、感じる間もなく打ち消されたのではないか、という類の、きっと微妙な感情。一対一であることや、素面であること、それで最初の気恥ずかしさは、すぐに跳び越されるのではなく、少し時間をかけて埋められる。

 母からは、こないだ電話で話した件のことなど。大枠では同じことを言っていたと思うのだけど、別の、理と情という区別で言えば、情の側面を強調したかったみたい。

 私はちょうど「天理教について」という文章をブログにアップしたのもあって、それについて「ああこれは私の話したいことだな」という自分の感情を、歩きながら、確認するなどする。
 と言っても、母からの、今日美術館来れる人いたら一緒にという家族への呼びかけも、急なことで、しかし、私もちょうど、“お腹いっぱい”だったところで――いやちゃんと言うと、文章にして言葉を出すという行為に対する“胸がいっぱい”――、これはもう今日はあとは人に会うとか会話をするとか、部屋を出てそういうことをしたい、ちょうどいいタイミングだ、と思って出て来ていたのだった。

 ブログの話をする。「ブログってのはどういうやつなの? フェイスブックとかとは違う?」というところから。「天理教について」はまだ読んでないみたい。

 父の話。あるいは、母の、「母ならよく通じるだろうと思って言うけど」、「人生がつまらない」という感覚、の話。母の言葉で言えば、「人任せの人生」。

 あるいは経済観念の話。教会は、いろいろあるけれども、例えば、ウチや母の実家の教会は、わりと「裕福」ではないか? という話。

 経済――あと私の脳裏には「政治」もあったが――は、コセコセした人間の営みで、あと「受験戦争」みたいのとかも、でもそこで「うまくやればそれだけうまくいく」という感覚、そこで「自分の力を手に入れる」という感覚、「実験して成功・失敗を味わう」感覚、こういうのがないと、さっきの「つまらない」になるんじゃないかな? という話。

 (そう言えば、この話の発端は、妹の、資格を取って、「私にもこんなのできるなんて」という言葉があって、という話から。)

 「裕福」な場合に、こういう細やか(さっきは「コセコセ」と言ったけど)な活動にアクセスしないでいること、とはいえ「教会」は経済活動をしていないわけでもなく、その「お客さん」であろうところの「信者さん」に対しては、とりあえずニコニコして、自分の「本音」みたいのも言えずにいたら――そして、そういうのが奨励すらされてしまって――、これはきっと「つまらなく」なっても仕方ないんじゃないかしら? という話。

 かたや、父は、「つまらない」人だったわけでなく、こうだと思うところを進んでた、傍目にもとっても(トンデモ?笑)――あ、おそらく偏りなく言うとすれば、好意的に見てくれる人には――「面白い」人だったと思うけど、父の「勉強なんかできなくてもいい」という言葉には、ほぼ最近までないし現在進行形ですら?縛られてるところがあって、それはさっき「受験戦争」と言ったけど、たぶん、さっきとは逆の意味で、「コセコセしたもの」=「細やかなもの」を排除していたんじゃないかな? という話。

 話の流れを実際に即したふうに追うのを中断し、以下、本質論的に展開してみたい。(もちろん経験から本質を取り出すような類の本質論は、経験への細やかな観察に基づいてのみ当を得たものであることが可能で、そうでなければ、不恰好な作り物に過ぎなくなると思われる。)

 * *

 Aは組織の「外」を向く。Aによれば、組織の活動は「外」へ「手を差し伸べる」こと。かたや、その逆の、Bは、組織の「内」を向く。その活動は――先に、「ニコニコ」や、「本音を言わずに」と言ったところのものだが――、「内」に対して働く「ケア」的な側面。
 Aは、その主張の極端において、「内」を疎かにしてしまう。実際の所、その「外」への「手の差し伸べ」は、「内」を支える人々が「外」においてなす、「細やか」で「コツコツ」(「コセコセ」でなくこう言おう)した人間的な経済活動によって支えられている。
 Bはその極端において、「内」の内部的な表面にのみとどまって、これもまたその「内」を支えるものがなす「外」との交流――「細やか」で「コツコツ」した人間的な経済活動――が見えなくなってしまう。

 どちらも、「細やか」で「コツコツ」した人間的な経済活動に対して盲目になってしまうという点で、共通する。「内」も「外」も、厳とした境界があるわけではなく、その「交流」で成り立つものなはずなのだが。

 ある種の盲目が両方にある。「細やかさ」と、それの「実質的な」働き(「コツコツ」、「うまくやればそれだけうまくいく」というような実質)。これらを二要件に区分できると考えた上で、二種類の症候を説明してみよう。
 B的な症候は、生が「つまらなく」なる。頽廃。「細やかさ」は形式だけになって空虚になっていき、実質を失う。
 Aは劇的だけど、それが凄まじくなると、心と環境は荒んでいく。荒廃。実質への強度ある感度だけが上がり、そこにあったはずの細やかな形をなすものたちは、荒れ果て、消えてしまう。

「でも、根本的な問題だとは思ってなくて、ある意味楽観してるというか、「外」への極端というのが父がやったことだとするなら、それを見せてくれたから、わかったところもあるというか。そういう実験をしてみせてくれたんだよね。「実験」だから、結果がわからないから、やってみる甲斐とか価値があるというか、やってみることが面白いというか、そういうのもあるよね。」

 

☆☆ ☆☆ ☆☆

 

 では最後に哲学を。

 「これは何か」という問いについて考えていると書いた。(当ブログ:「これは何か」

 上のような話をしているとき、その問いは、どうなっているだろう。上のような話をしているとき、そこにおいて、注意を向けられている「これ」は、主に、「そこで話されている事柄」のことになっているのではないだろうか。

 そのような意味で、われわれは、あるいは私は、ほぼつねに(そしてまたすでに)、何かに「従事」している。そのときの「これ」(先の記事内では、「ひとまず「私の目の前のこれ」と言ってみたい」と言ったもの)は、何であるともわからないような何かなのではなく、たぶん、(ときにきわめて個別的でもあるような)ある特定の何かだ。

 そのときあの問いはどうなっているだろう? 「忘れられている」のだろうか?

 このことは、先の問いを考えるに当たって、関係のないことだろうか?
 もちろん私は、ひとまず、ここには探ってみるべき何かがあるのではないかと考えている。