Hajime notes

謎を食べて生きる

頽廃と全体性

 頽廃というのは興味深い現象だと思う。
 先には組織内におけるその現象について書いていたが(当ブログ「母と話す、二つの症候について」)、狭く一組織内の現象としてではなく、より広い文化的事象としてもあるだろう。その場合、その事象を成り立たせるための要件とは何だろうか。

 先の「組織論的」考察によれば、その現象が起きるのは、「内」がそれだけで自己完結しているかのように〈見なされる〉場合、すなわち、「外」との「交流」に対して盲目になる場合であった。ここで〈見なされる〉としたのは、おそらく、現実的には、「外との交流」はあらずもがなのことであり、すなわち、実際には「ある」のである。ただ、例えば組織が大きくなれば、その「中」しか見えなくなることが可能になり、そのような観点からは、あたかも組織なりその中にいる個人なりが、「外」から離れ、自己完結的に存続することが可能なように「錯覚」されるのである。

 さて、このことを広く社会・文化的な事象としての頽廃に類比的に適用するとするならば、どうなるか。
 類比から言えば、それは「外」が〈見えなくなる〉事象のことである。しかし、違いは、一組織という自明に「狭い」領域に限った話でなく、社会という「極大的」な領域の話とすれば、たしかにその「外」は「ない」とも考えられることであろう。

 宗教においては、この「外」は「超越」の領域として確保されることになる。しかし、そのような「超越」を認めないような「非宗教的」な場合にはどうだろうか。

 「中」だけしかなくなった場合には、必ず、「頽廃」するだろうか。これは「外」の無さに対する「ニヒリズム」とも言えるだろう。

 「宗教」しかそのような「外」を提供しないか、と言えば、おそらく、そんなことはない。
 非宗教性としての「世俗(主義)」というのを考えてみても、そこにおそらく同時にあるであろう例えば「自由」や「平等」等の「理念」は、おそらくはその実際的ないし現在的な実現不可能性ということから、「外」を提供するものと見なしうるように思われる。

 あるいは、「芸術」や「哲学」(学問)といった活動も、そこでの理念的存在である「美」ないし「芸術性」、あるいは「真理」といった「理念」が、「外」を提示するものでありうる。

 もちろん、伝統的な「神」の理念(それは理念と呼んでしまってよいのか?)と、それら非宗教的な「理念」について、その差異を等閑視してしまってよいのかということには、問題があるだろう。

 しかし、その問題を措いておけるとして、はたして「外」なくやっていくことは可能だろうか?
 「外」のないことを「ニヒリズム」と呼ぶとすれば、これは、ニヒリズムでやっていくことは可能だろうか、という問いになるだろう。

 ニーチェはこの問題に「永遠回帰」という答えを提示したと見なせる。積極的なニヒリズム
 そして、これを「頽廃」の対比項と考えるなら、「頽廃」とは実は「消極的なニヒリズム」であった、わけである。その「消極性」は、実は「外」を求めているか、あるいは「外」がないことの嘆き、そうした感情と通じる。

 「頽廃」とは、「余り物が腐る」という現象だろう。そこでは、何が余っているか。それを(生の)「エネルギー」のようなものとして考えられるだろう。エネルギーのやり場がないことに「腐る」。
 ローカルな「内」を考えるのでなく、「内」を世界全体と重なるまでに極大化した場合、そこに「余り物」はあるだろうか。ないはずではないか?
 そこにどんな余り物も日陰者もなく、全てが循環の内にあること、「永遠回帰」のビジョンとはこれだろう。

 さて、こう考えるなら、われわれは、この問題に関する「極点」に達したのだろうか。これとは別の可能性はもうないのだろうか。
 ロゴスを踏み越えようとする(も、それにまた還らざるをえない)哲学者の営みは、例えばこの問題に関しては、むしろここから始まるだろう。と、言いたい――ただし、上記の考察が、ある種の「極点」に達したものだと仮定して――。

 もちろん、そこでは、「この問題」なるものがそもそも存在するのかどうか、それが問われるべき「謎」に値するかどうか、問い直されるにちがいない。