Hajime notes

謎を食べて生きる

「政治的行動」について──権威による媒介、(非)宗教性、カネ

「経験的知見」が必要な領域は色々あるが、「政治」はもちろんそうだ。「全部」を知れたらそれは理想的だろうけど、有限な存在がそれをしようとしたら無限に待たなければならなくなる。どこかで見切りをつけることになるが、そのときには、おそらくは一定の動機根拠に基づいた上で、ある種の決断によって、動く(行動する)ことになる*1

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根拠というのは、政治の場合、「権威」と切り離せないように思われる。神的・宗教的な政治の場合、この根拠=権威の究極の一つは「聖典」だろう(神はその上の究極だろうか)。ところで、中間的な権威の問題がある。それは相容れない複数のものである可能性があり、例えば、聖典の解釈において。これは法解釈のレベルの問題だが、執政的レベルの問題もあるだろう。教会や聖職者の問題。

権威による根拠というものはどういうものだろうか。そこにはある種の「信仰」があるような感じもする。自分でわかっているわけではないのだが、信じているということ。しかしこれは勝義の本来的な意味での信仰(神や聖典への信仰)とは異なるだろう。(「信頼」とでも呼ぶ方が適当だろうか?)しかし、だからと言って、前者をなしにはできない。ときに本来的なものを省みつつ、たいていは中間的なものに依拠してやっていくことになる。中間的信仰。

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こういった権威やそれへの(中間的な)信仰に基づく、ということが、政治的な行動が、「理詰め」のそれではないということ、だからある種の「決断」によってなされるということをいみする。これが理詰めでないということが、この際に「勇気」が必要とされるということであり、この「勇気」の美徳は、それを中庸として捉えるなら、その過度・過少はそれぞれ、向こう見ずと臆病である。向こう見ずはおそらく、根拠の不十分であることを言い、臆病は根拠の十分さにもかかわらず行動できないでいること、である。ただし、政治的領域において、根拠の十分さが「完全」になるということは、政治の本性からして、ありえないことだと思われる。という意味では、ある意味ではどこまでも臆病になる(→いつまで経っても動かないでいる。これはある意味では「哲学」の態度である。「見る」だけの営み。cf.「極度の臆病になるという気の狂い方」 https://twitter.com/hitoshinagai1/status/553101947402592257)ということも“可能”なのだろう。

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動機について言えば、これは根拠というものの把握が知性的能動的――権威による根拠の場合、それは部分的に受動的であろうから、“受動的能動”とでも言うべきだろうか――なのに比して、感性的受動的な側面が強いものである。受苦。(そこにおける基本的な情念は苦しさ以外にもあるか? 怒り等。しかし怒りは、より基礎的には受苦から説明されるべきではないか。)何らかの根拠的な裏付けに基づかない苦しさの表明があり、ある意味見苦しいものとなるが、しかしこれはこれで重要なことだと思われる。痛みはまずは分節化された語り・表明であるよりは呻きや叫び等の表出として、表現される(分節化されない声)。そのような叫びは、聞く者にも、「痛み」を感じさせるようなものとなるだろう。もし、このような叫ぶことさえもが封じられてしまうなら、と考えれば、これの重要さが窺い知れる。

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根拠に基づかなければ盲目となるだろうが、といって“実質的”な動機に基づかなければ空虚なものになるだろう。ただし、それが政治的な行動である場合には、自らも何らかの権威となる(あるいは権威へと連帯する)ということになる。その意味で、ここには権威に特有の中間的信仰が働くことになる。中間的信仰は“媒介”的である。それゆえ、先に“実質的”といったものは、この場合にはおそらくほぼ必ずと言えるほど、変質したものになるはずである。実質の媒介。媒介的な実質。

“媒介”とは、上を受けて言えば、動機の媒介、苦しさあるいはその叫びの媒介だろう。さらにそれはその苦しさを、究極的には、あの究極根拠へと媒介する媒介である。究極根拠は、宗教の場合、先に述べた、聖典、ないし(より上位としての)神、である。しかし、究極根拠に到達することも無理な話であるのだから、ここにはさらに段階がある。究極根拠の解釈への媒介であり、その解釈の実際上の運営を担う組織や人への媒介である。

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政治を主に宗教的な政治のこととして考えてきたので、非宗教的な政治(世俗的な政治)についても。

大きな違いは、究極根拠としての聖典や神の存在だろう。非宗教的な政治は「上から」もたらされたそういう根拠を持たない。それはおそらく全てが「下から」なされるのであり、その意味で、そこで究極根拠とされる理念や根本法規といったものも、歴史超越的な絶対的なものではなく、歴史に相対的な、(人によって)「作られる」ものである。(もちろん、聖典や神も、それらを「下から、人によって、作られた」ものと見なす還元的な観点はありうるだろう。しかしそれは宗教を宗教でないものとすることであろう。)ただしそこには例えば「自然権」などという概念があり、これは、(人によって)「作られる前からあったもの」という概念である。

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 媒介と言えばカネが思い浮かぶ。カネは、ある意味で、あらゆるものを媒介する。(商品的な)価値へと。

 上で、苦しさが媒介されると言ったが、これもカネによって媒介されうるだろう。何から何へと? 賃金労働は労働の苦しさをカネへと媒介する行為である。賃金労働に限らず、労働一般を考えれば、労働は、労働の労苦を価値へと媒介する行為だろう。

 カネによる媒介先である「価値」が専制的に振る舞う場合があり、その場合、その「価値」は「神」に取って代わることもありうる。物神。あるいは、非宗教的な場合、「理念」に取って代わる。

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 このカネが媒介する「価値」は往々にして人々の「本音」の部分であるとすると、先の「神」や「理念」は「建前」ということになる。往々にして本音は建前から批判的な目を向けられるが、それも行き過ぎれば、むしろ本音を言うことがアッパレとして建前の説得力を凌駕することもある。

 人間の動物面(における社会性)を構成する、性や暴力といったものも、この「本音」の部分に位置するものと思われる。(人間の“リアル”な面を構成するものとしての、「エログロナンセンス」の問題。それが表現するように思われるような「真理」とはその“リアル”のことだが、そのリアル=実在性とは、人間の“自然的”側面(動物面)のことと思われる。)

*1:後から思ったが、この動機・根拠・決断は、ハイデッガー存在と時間』で言えば、それぞれ、被投性、了解、企投に対応するだろう。