Hajime notes

謎を食べて生きる

「勉強なんかできなくてもいい」について

 ツイッターで、天理教関係のフォロー・フォロワー関係の方々と、「勉強なんかしなくてもいい」「勉強なんかできなくてもいい」――両者は微妙に異なる――ということについて、話を交わさせていただいた。
 元々は、教会関係者が、特に権威関係にある上の者が下の者に対して「勉強なんかしなくてもいい」と言うのは問題があるだろうという文脈であった。それに対して私は、父が生前に言っていた「勉強なんかできなくてもいい」という言葉を想起し、引用リツイートでそのことを述べたのだった。
 「天理教について」の後に書いた「母と話す、二つの症候について」という文章で、そのことは少し触れた。父の「勉強なんかできなくてもいい」という言葉に、ごく最近まで、ないしは現在進行形でも、縛られていた(いる)ものを感じる、と。

 このことを、「哲学」と関連させて述べたい。というか、というのも、私の場合、「勉強」云々というのは、おそらく最も本質的には、「哲学」に関することであるだろうと思われる。

 哲学対話の会でお話したことのあるおがぢさんが、ブログを書いておられる。(学校で哲学対話をするとやっぱり色々難しいことに出会います、という話 - あなたとわたしのこどもてつがく(仮))哲学対話を学校に持ち込むことが、学校の生徒たちの普段の人間関係にとって、是か非か、という問題。「哲学対話以外の多くの普通の学校の時間を生きている生徒や学生にとっては、問題だけ残して去っていく哲学対話の教員は悪魔のように映るかもしれない。」とある。

 哲学の目指す「真理探求」には、そのようなところが不可避的にあるのではないか、と思える。哲学対話において「人格攻撃はいけない」というルールが設定されるべきという見解があるが、一つの観点からごく単純に述べるなら、人格攻撃がいけないのは人格攻撃であるからではなく、それが真理探求に資さないということが対話の中で見出されることによって、対話によって自ずと排除される、というふうであるべきである――なぜなら、真理探求はまさに真理探求のみによって営まれるべきであって、そこにそれ以外のものを持ちこむべきではないから――、と考えられる。

 しかし、この考えがこのままでは単純に過ぎるとも思われるのは、ではもし人格攻撃が真理探求に資するのであるとすればどうか、と考えてみるべきだからだろう。(もちろん、そのような真理があるとすれば、驚くべきことのようにも思われるが。)

 そして、しかし、ある意味では、そのような「真理」はある(ありうる)のではないだろうか。
 というのは、一般的な仕方で述べれば、問題となる事柄について、その個別的な事情と一般的な事情が切り離しがたく結びついているような、そういう事柄の場合。

 もちろんすぐ私の念頭に浮かぶのは「信仰」であるが、私は信仰に関しても哲学しようとしており、そして、それは私の個人的な事柄と切り離しがたく結びついているのではないかと考えており、私としては、そうした個人的な事柄をも俎上に載せて考えていかなくてはならないのではないか、ととりあえず考えている。

 「学校での哲学対話」に話を戻して言えば、たしかに、そうした「分かちがたい」事柄に関して、話をすることが、たとえそれが真理探求だけを理念にした「哲学的」な「対話的」な話し合いであったとしても、「耐え難い」ような場合はあるかもしれないな、と思う。そしてこの文脈では、対話への「自由参加」が保たれていることは必要かもしれないな、と思う。

 「勉強」に関しては、それは一般的に言えば、「教育」の問題であろう。

 父の言葉が私にとって縛りとして働きうるような、容易に解きがたい問題を投げかけるがごときものであるのは、それが、言うなれば「貧困支援」の文脈と絡んで語られたものだったということがある。(これは、天理教の言葉で言えば「おたすけ」「人だすけ」であるが、というよりはむしろ、父の念頭にあったのはそういうことであったろうが、もちろんこれを「貧困支援」と言い換えてしまってよいかという問題はある。)

 言ってみれば、「貧困」とは「教育」の機会を受けられないことの貧困、機会への貧困でもある、ということ。

 その機会を得るのは、究極的には、「運」とでも呼べるものによって左右されるのではないだろうか。

 だからもちろん、その「運」を、幸運にも得ることができた(できる)者は、それを大いに活用すればよい。(フォロワーさんとのやりとりから出てきた言葉で言えば、そこに何ら「罪悪感」は必要ないはずである。)

 しかし、ここで、私の場合、「哲学」が関わってくるかもしれない。というのは、哲学をどこまでもしようとするのであれば、哲学は、その「運」に関しても哲学しようとするのでなければならないのではないか? 哲学が、もし何らか「教育」の賜物であるとすれば、その「教育」を可能にしたものについても、哲学は問わなければならないのではないか。
 それゆえ哲学は、そこで、「運のなさ」「不運」についても考えなければならなくなる。もし私がそういう「運」のない者で、「教育」を受けることもできないのであれば、そのときに私の「哲学する」ことはどういうことになるか? ということを問わなければならなくなる。これは、いわば、「運のない」場所に身を置いてみるということ。

 このことが、「哲学」にとって、ある場合には「自己破壊的」にも作用しうるのではないだろうか。
 何となれば、極端化して言ってみれば、「哲学する」ことは、「哲学しない」ことをもその身に引き受けてみなければならない。

 つまりは、私にとって、父の「勉強なんかできなくてもいい」という言葉は、最も根底的にはこの部分に残響として残るのだろうと思う。つまり、「勉強なんかできなくてもいい」は、「哲学なんかできなくてもいい」や「哲学なんかしなくていい」へと、そしてこれが最も極端化すると、「哲学などしてはならない」として。

 さて、その「自己破壊」から、いかにして抜け出しうるか。
 それはおそらく、その自己破壊の機序(メカニズム)をも、上で試みたように、語り尽くしてしまうことによって、だからつまり、それについても哲学することによって、ではないだろうか。
 というよりも、私は、実際にそのようにして――つまり哲学することによって――、そのような「自己破壊的」「自己否定的」なものを少なからず乗り越えてきたような感がある。

 「語ること」が不可能に思える何かがあったときに、その「語ることを不可能にさせるような何か」についても語ることによって、その「語りえなさ」を語ってしまうこと。

 「語り」にはそれができるような力があるということ。そして、この反対の側面には、「語り」にできるのはせいぜいその程度でしかないということもあると思われる。「語りえなさ」のその所以について何がしかのことを「語れる」ということは、その最初のものが「語りえないものでなくなる」ということではないだろうから。

 おそらくここにも微妙な問題はあるのだろう。語りえなさの所以について語ることと、端的な沈黙は異なるだろうから。

 私は、哲学徒として、「端的な沈黙」を破ろうとしている。そしてそのこと自体が「悪魔のよう」なこと、かもしれないという思いもときに湧いて来る。なぜか。(なぜだろうか?)

 それなのになぜそうしようとするのか? ――ここにあらかじめ保証された弁明の余地など何もないのではないだろうか。

 哲学の先輩の言葉「この道がどこに続くかと問うな。ただ歩め」を思い出すが、これも何ら「保証」では断じてありえず、せいぜい単なる「道標」に過ぎないのだろう。

 最後に、哲学において、私は自分の問題として、「言語は不可能である」という類の哲学的懐疑論に魅かれている(もちろん、その定式化は精確ではない。というよりは、より精確には、そう定式化することが果たして仮にも可能であるかどうかが当の問題(の一部)となるような類の問題である)。これは、その「自己破壊性」において、一つの極点にあるようなものに思われる。

 それと同時に、私は、上でも述べたように、「信仰」に関しても哲学しようとしているが、このこと――おそらく、信仰ではなく、信仰について哲学すること――は、上のような「自己破壊性」と軌を一にするような感がある。

 ここに何か通底するものがあるのではないかと睨んでいるのだが、これはまだ直感に過ぎない。