馬鹿正直ってムズカシクないですか?
友人がSNSへの投稿で「馬鹿正直」という言葉を使っていて、いや別にその方の文脈をきちんと押さえて言うわけではないのですが、思う所あり、書いてみたいと思います。
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幼い頃の記憶で、何について言われたかは覚えていませんが、父に、「おまえそれはな、馬鹿正直って言うんだぞ」と、何かについて「怒られた」ような記憶があります。
たぶん「馬鹿正直?って?何?」という思いだったと思いますが、「えっ、〈正直〉って、いいことじゃないの?」という思いがあったように思います。
たぶんこれには混乱し、最終的には、何で怒られるのか、たぶん、わからなかったと思います。
ときには嘘をつけということだろうか? 言葉なり、人のことなり、あまり信用し過ぎてはいけないということだろうか?
さて、「この問題」は、実は、今でも解けていない気がします。「馬鹿正直」って何でしょう?
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おそらくはこういうことかなと思うのは、昨今の言い方で言うと、「空気を読め」ということかなと思います。「言われた通り」のことではないことや、「言われていないこと」について、その場合にはこうだ、ということが、たぶんある。それが「空気」と言われたりして、それを「読む」ことが大事になる。
「この問題」って、ちゃんと考えようとすると、たぶん、難しい問題ですよね? どうなんでしょうか?
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何らの解答を出せるわけでもないですが、二つのことを対照させて、結んでいきたいと思います。「馬鹿正直」をどう考えるべきか? (あるいは「空気」とやらをどう考えるべきか?) 馬鹿正直は(空気が読めないのは)いけないこと?
――という問いが基礎となるような、そういうものへの対処の仕方について。
一つあるのは、馬鹿正直だとか言われることを避けるという前提で、「適当にやる」「うまくやる」ということ。もちろん、これらは、何ら具体的な解法は提供しない、本質的に曖昧な回答なんだと思います。「空気」が曖昧な存在であるのと同様に。
もう一つ、もっと「徹底的に馬鹿正直になる」とでも言えるような対処の仕方がないでしょうか。そこで「正直」が「馬鹿」と言われるのはどうしてか? そこにある「空気」とされるものの正体は何か? 「適当」や「うまく」というのは、実の所、何をやっているのか? ということを徹底して探ってみる、というようなことです。
後者の道は「哲学」を好むような人は好むような道かもしれませんが、しかし、この道は、おそらく、時間がかかる。なので、実際の場面では「適当」にやる要領をも学びつつ(いやしかしまさにそれが得体が知れないわけですが)、ちょっと時間のあるときにその「適当」やらを分析してやるのが実際的かもしれません。
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この分析に、一人で考察を練るだけでなく、「対話」をも入れてやれるといいよなーなどと考えたりします。
実際の所、「適当」にやってる人も、おそらく何かを「知って」はいないので――知らずに何かをするという技法が「要領」や「適当」と言われる、……すごいよね……!! ――そこであなたは何を知っているの? 何を知らないの? ということを〈うまく〉尋ねることができれば、あっやっぱり、君も知らないんだよね? ということがわかったりすることが、ある気がします。もちろんこれもそうストレートに聞けなかったりもするかもしれないのが、またアレですが…
でも意外と、素直に聞くと、素直に「わかんない」って答えが返ってきたりすることもあるような印象もあります。
単に自分で「敵」を大きくしちゃってる場合も、たぶん、あるのではないかと…
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父には(とはいえもう亡くなっているので聞けませんが)、子供に馬鹿正直って、どーなん? と言ってみたかったかもしれないです。
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あ、最後に一言(と言いつつ書いたら案の定もうちょい伸びた)。
上で出てきた「適当にやる」「うまくやる」、こういうのは広い意味での「政治(性)」の問題なんでは、と思います。この場合に考えてる「政治(性)」は「国家や社会の統治」という意味とは全然違う、言うなれば、おそらくは、「個人」の身体の動かし方や心の持ち方におけるその生活や生の「統治」の意味です。
こう考えるのは「もっと徹底的に馬鹿正直になる」方向性――つまり「哲学」だと思っていますが…――でのことで、もちろん実際面で役に立つにはちょっと時間がかか(り過ぎ)る行き方かもしれませんが……
(あ、でも、瞑想はこの「個人」における「統治」の問題の解決を直接に目指すものかも…… 宗教一般も、そうかな……? ちがうかな……)