Hajime notes

謎を食べて生きる

暴力・愛・祝祭──映画『HOMIE KEI~チカーノになった日本人』より

 『Homie Kei~チカーノになった日本人』。高校の同級生がカメラマンをつとめたということで、お知らせを受けて、先行上映会に行ってきた。元ヤクザでアメリカの刑務所に服役経験がある、Keiさんという日本人の姿を、7年間くらいかけて追ったドキュメンタリー映画

 一度SNSで、少し紹介を投稿したのだけど、何となくもう少しいろいろ書いておこうかという気がしてきて、こちらで書いてみることにした。いたって好き勝手に書いてみたいと思う。

 ひとまず、某SNSではこんなふうに書いた。

高校の同級生がカメラマンをつとめた映画だそうで、お知らせを受けて先行上映会に行ってきました。
元ヤクザでアメリカの刑務所に収監経験のあるKeiさんという日本人の姿を7年間くらいかけて追ったドキュメンタリーです。

「暴力」というと無秩序なものと考えがちですが、無秩序の中にも固有の「ロジック」を持っているような気もして、そんなところに興味がひかれます。(「プロ」の「実践知」というのが、ある?)

Keiさんと昔からの友人たちとが、昔したワルいことを語るのが、妙に楽しそうで(Keiさんはそうでもなさそうだったかな?)、なんとなく印象に残っています。ワルさの語りが楽しいってのは、これ、でも、なんとなくわかる。なんなんだろうな。

上映後にトークショーがあって、ゲストは元ヤクザで今牧師の進藤龍也さん。ざっくり言ってしまえば「昔悪かった」というやつですが、私の父も、宗教家でしたが、このアイデンティティを持っていた気がします。「神に仕える(使ってもらう)」、摂理によって物事が「なってくる」、たいていのケースが親との関係に問題がある中で一番は「夫婦が仲良いこと」、なんか父の言葉と重なったりもして、個人的に少々感慨深かったです。

 

 

 さて、「暴力」のロジックに興味がある。ひとまずは「法」を境に、その内と外というものを考えることができそうだ。「アウトロー」という言葉は「法の外」という意味だと思うけど、この観点からその存在に関心を引かれる。

 しかし、法を基礎に考えるとすれば、その法の制定権力のようなものとしては、国家権力なりの方が、もちろんより強大で基礎的なものだろう。アウトローは、その法の制定がまずあった上で、そこから「はみ出る」ものとして考えられる。

 ここで映画の話に戻ってみると、アメリカの刑務所は、その収容者の犯罪の度合いに応じた収容レベルのようなものが5段階ほどあり、上のレベルにおいては、実質的に無法状態にあるというような話があった。例えば、長い刑期に服していて、実質的に出所の見込みがないような囚人にとっては、所内で殺人を起こしてさらなる刑が加算されようが、ほぼ制裁としての意味はなく、よって「こわいもんなし」となる。

 と、そのような話を、先に言った、法から「はみ出る」ということとの関連で考えてみたい。法からの「はみ出し」は、法の外に出ると言うよりは、むしろ、法の中にあった上での(刑務所という「法の中」)、何らかの逸脱のことかもしれない。一つの法が支配する領域を一つの全体社会として考えてみれば、その全体社会の中に各種の中間的な社会や集団があり、「はみ出し」はそこにおけるもののことではないだろうか。

 

 最近、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)を読んだ。そこで取り上げられているのは学校におけるいじめだが、これをモデルケースにして、さまざまな中間集団における「いじめ」の構造・メカニズムを解明することが目論まれている。

 内藤によれば、単なる単発のものでない、集団的・継続的ないじめが起こるのは、中間集団における「群生秩序」においてである。この「群生秩序」は、上記の刑務所内の「無法状態」と類比的に捉えられるのではないかと思った。

 「群生秩序」においては、それに特有の倫理・規範が存在する。その倫理・規範の下では、例えばいじめることは、それほど悪いことではない。それどころか、ある種の善いことでもある。

 刑務所内での「ルール」として、Keiが、「謝るよりは死んじゃった方がいい」と語る場面がある。こんなのも、その中間社会(刑務所内は全体社会の中に位置する一つの中間社会だろう)における独特の倫理・規範を示したものとして、受け取れる。Keiは、その独特の規範の中で、その規範に沿った才覚を示す人物だった、と考えることができる。

 

 さて、とりあえずは、「アウトロー」が、その字面上は「法の外」を意味するとしても、実際は、一つの法の支配域である全体社会の外ではなく、全体社会の中に位置する中間社会における存在なのではないか、ということであった。

 しかし、ヤクザ等の「アウトロー」は、これとは違ったイメージで語られることがあるのではないだろうか。つまり、字義通り、法の外にいて、何でもできる「こわいものなし」であるかのようなイメージで。(このイメージはイメージで、例えば恐怖を煽るなどの効果に利用されうるのだと思う。)

 ここには、中間集団、中間社会といったものが、実質的に及ぼす影響力というものがあるのだと思う。内藤も前掲書で、「中間集団全体主義」という概念を提唱している。中間社会と全体社会のどちらが、成員に及ぼす実質的な影響力が大きいか、これはそう単純ではないのだろう。

 

 

 さて、ワルさの語りについて。映画の中で、Keiと旧友たちとが、昔のワルさについて語る場面がある。妙に楽しそうではなかったか。ワルさの語りが楽しいものであること、このことには、何らかの真実が表れていそうに思える。

 内藤は、「群生秩序」において、成員が互いの暴力を讃え合うという現象を記述している。おそらく群生秩序の中にも様々な種類がありうるのだろうが、暴力の讃え合いがあるということについては、とりあえず、その集団において暴力に何らかの価値が置かれていると考えてよいと思われる。

 しかし、ワルさ一般ということで考えると、このことは狭義の「暴力」に限らないものに思われる。おそらく、さまざまな中間集団に固有の「ワルさ」がある。(例えば、大学院等で哲学を学んだが、そのような集団に固有の「ワルさ」も、あるように思われる。)その「ワルさ」とは、おそらく、全体社会における倫理・規範とは異なる、その中間社会に固有の価値のことかもしれない。こう考えるならば、その「ワルさ」を語ることによって、中間社会の成員同士は、お互いの結束を確認し合っているのかもしれない。平たい言葉で言い換えてみれば、ワルさの語りの楽しさとは、内輪ウケの楽しさである。

 しかし、もし仮に、その中間集団が自分たちだけに通じる固有の価値を超えて、全体社会(ただし、上では「全体社会」を一つの法が支配する領域として考えていたので、「全体」とは言っても、世界全体ないし人類社会全体から見れば、その下位領域である)に通じるような何らかの普遍的な価値を標榜する場合には、話が異なるかもしれない。その場合には「内輪ウケ」が真に楽しいものとはならず、その楽しさは、中間集団内の固有の価値と、それが標榜するはずのより普遍的な価値との間で、ジレンマを起こすかもしれない。(なんとなく、Keiはそれほど楽しそうではなかったような気もしたのだが、こういうことが読み込めるかもしれない。)

 

 映画の一つの柱は、「家族」であった。「家族」は一つの中間社会と考えうるだろうが、これも上記のようなジレンマに晒されうるだろう。だが、「家族」には、さらなる特殊性があると考えることもできるかもしれない。つまり、いわばそれは「内輪ウケ」だけで構成されている、ということ。というのは、それが、何らかの普遍的・客観的な価値や理念でもって構成されてはいない、ということである。この一方で、「家族」における価値は「愛」だと言われるかもしれない。この両方を突き合せて一つの矛盾ない見解を組み立ててみるなら、こうだ。すなわち、家族間の「愛」は、普遍的・客観的な価値ではなく、「語りえないもの」に仮に与えられた名である。こう考えると、何らかの、語りうる、客観的、普遍的な価値や理念は、必然的に「愛」とは敵対的なものになる。

 Keiが刑務所でその仲間となったメキシコのチカーノ・ギャングたち、その集団は、一つの「家族」であると語られている。「家族」に関して述べた上述のような〈必然的〉なジレンマは、これらの集団にも同様に当てはまるかもしれない。また、「愛」のように、語りえない価値を持つ中間集団も、同様なジレンマを経験するかもしれない(例えば、「信仰」の共同体)。……しかし、それとも、あらゆる中間集団に、この種のジレンマ(つまり、単純に言ってみれば、「愛」と「普遍」との)がある、と考えるべきだろうか。

 

 

 SNSでは書かなかったが、もう一つ、ある身体感覚について。刑務所内が実質的な無法状態だと語るKeiの言葉に即して、そのような状況を想像するに、たしか、腹の辺りがゾワゾワするような感覚を覚えた。自らにいつ暴力が襲いかかってくるかもしれない状況。恐怖や不安の感覚かもしれないけれど、不安一般とは区別できる、特有の感覚であるかもしれなかった。この感覚に耐えて、過ごす時間を考えると、これまた、恐怖や憂鬱の感覚を覚えたりも。

 これ以上のことは話が今の所広がらないけれど、何かしら特徴的な感覚で、何らかの興味深さはある気がしたのだった。もしかしたら、以下で書く、「何でもなさ」「退屈」のこととつながるかもしれない。つまり、このような身を震わされるようなことは、転じて「楽しさ」でありえ、「退屈」をなくすようなことでありうる、というようなつながりで。

 

 トークショーゲスト進藤さんの、元ヤクザ、今牧師という肩書。「昔は悪かった」というアイデンティティ。これは、個人的なことで、亡父を思い起こさせるものであった。

 ここから、突飛かもしれないが、あるいはもしかしたら重なるかもしれないことで、思い起こすものがあるが、それは「何でもない」ということ。あるいは、日常生活、ないし、あるいはいわゆる平凡な市民生活のようなものの、「退屈さ」のようなもの。

 暴力にはある種の「派手さ」がある。別様の、もっとかしこまったような言い方で言えば、「祝祭性」があるように思われる。もっと単純な言い方で言えば、暴力の「楽しさ」。

 Keiさんも、そしてトークショーゲストの進藤さんも、そして、宗教家であった亡父も、関わっているであろう「支援」という文脈がある。進藤さんがトークショーで仰っていたが、つぐないのためだけの真面目さ・更生は、いつか燃え尽きる、バーンアウトしてしまう、と。おそらくは、それ自体に楽しさがないような活動は長続きしないという意図の発言であったかと思う。

 ドラッグ依存等のことなども思い起こすが、「支援」において、「暴力」が持っていたであろうような、あの「楽しさ」「祝祭」との関係性を考えることは、本質的なことではないかなと思う。いわば、アレに匹敵するような「楽しさ」「お祭り」がなければ、長続きしない、という。

 

 私であれば、例えば、「哲学」は、そうした「楽しさ」「祝祭性」を持ちうるものだと聞いて、なんてそれは(よいことだろう)、と思ったのだった。ここには「暴力性」も本質的に関わるかもしれない(例えば、何かを破壊すること)。(そしてまた、このことは、哲学にとって、もしかしたら「不純」なことかもしれない、とも思うが、これはまた別のことである。)

 そして、「文化」の中にはこうした「暴力的な楽しさ」を持つものがそれこそたくさんあるのだと思う。たぶん。これとの関係性を考えることが「支援」にとって、きっと本質的なことだろうと思う。単純に言ってしまえば、被支援者を「文化」へ導くこと、であるが、そう単純に言ってしまってよいのか、まだ私は知らない。(もしかしたら、ここで引き合いに出すべきは、文化の、あるいは生活の、「平凡な楽しさ」かもしれないが。)

 

 

 最後に、まとまらないながら、一応まとめておこう。たぶん、三つくらいのことを書いた。一つ、「暴力」の存在論について。それは「暴力」と言っても、ある種の組織的暴力のことだと思うが、その社会の中での位置づけについて。いわゆる「アウトロー」を、「法の外」ではなく、「法の中」の中間集団であると考えた。もう一つ、中間集団の持つジレンマについて。集団内における「愛」と、外の普遍的価値とのジレンマ。もう一つ、「暴力」の楽しさ、「祝祭性」について。それらの、「支援」との、あるいはまた、支援が接続するものであるはずの、文化的な暴力性、あるいは生活や文化の平凡さ、退屈さとの関係性。

 

 最後に宣伝の一端を担って。2019年4月26日よりヒューマントラスト渋谷で公開だそうです。ご関心のある方はぜひどうぞ~(^_^)/

 

【追記:当初のタイトルは「『Homie Kei~チカーノになった日本人』を観て」でしたが、後から、自分が何を書いたかを振り返ってみて、書いた内容に踏み込んだ「暴力・愛・祝祭──映画『Homie Kei~チカーノになった日本人』より」というタイトルに変えました。2018.12.14記】

路上哲学日誌18/9/10

 ひさびさの更新。路上哲学、street philosophyに行ってきました。

 まずは時系列的に振り返ってみたいと思います。

 少し前に、ストリートミュージシャンはあるけど、ストリートフィロソフィーってあんのかなーとか考えてました。哲学カフェとかの哲学対話の活動にも参加したことがあるけど、もう少し別の形で、ストリート(路上)での哲学対話だったらどうなんだ、みたいな興味もあって。じゃあともあれとりあえずやってみるか、ということで、場所は電車で一本、大都会の渋谷へ。

 途中、スケッチブック等、道具の買い出しで百均へ。あと、大道芸人よろしく投げ銭も募る感じでいこうかなと考えてたので、投げ銭箱も探す。虫かごがフタもついてちょうどよさそうだったので虫かごと肩ひも用のリボンを購入。レジのおばちゃんにむき栗を勧められ、断るも、あ、お菓子いいかもなと思い、配布用にマシュマロを購入。

 さて、ハチ公前の簡易ベンチのとこで、準備。スケッチブックには「路上哲学やってます。あなたの謎教えてください。Street philosophy now. Tell your enigmas.」と書く。書くのにも勇気、そこから踏み出すのにもまたなかなか勇気がいる。

 なかなか踏み出せないでいると、英語で話しかけられ、ここでご飯を食べても大丈夫か?と聞かれたので、大丈夫と答える。ややあって、一人目はその人に話しかける。In English。 スウェーデンからの旅行者で、Janiさん。

 まあ趣旨は理解してもらえたようで、meaning of life(人生の意味)や infinity of space(宇宙の無限性)について疑問に思う、と。問いの形にしてくれないか、とお願いすると、「What is God?」としてくれた。スケッチブックに記入。神は存在するかという問いとは違うよ、と言ってた。存在するとかしないとか、それは何について言っているのか、ということらしい。街頭で宗教の話をすることは大丈夫か?スウェーデンでは大丈夫だけど、とも気にしていた。マシュマロを渡す。こちらの問いも尋ねられた。「言葉はなぜ意味を持つのか Why does language have meaning?」。それから向こうがセルフィー(スマホの自撮り)を求めてきたので、オッケーする。今頃どこかのSNSに上がっているかもしれない。君がまだやっていたら後でまた会おうと、別れる。

 ボランティアだろうか、おばさま方3人が掃除をしておられ、スケッチブックを見て、勉強してるのねぇ、のような反応。ついでに話しかけ、何か謎はと尋ね、「これからどうなっちゃうのか」「何がですか?」 結局問いとしては「これから世の中どうなるのか」としてスケッチブックに記入。税金払ってきたのに国に将来を任せておけるのか、自分で何とかしなきゃいけないのか、とかいうことみたい。

 さて、スケッチブックのメッセージ片手に、歩いてみる。やっぱり面映いものがある。交差点を渡って反対側へ。女子二人連れに声掛け。高校生。えー謎なんかなーい、みたいな。今日は武道館へライブに行くとのこと。楽しんできてくださいね、でお別れ。

 壁際に立っていた金髪の日本人女性に声かける。最初は拒否され、いったん引き下がって、再度アタック。そこから意外と話が続き、もらったお題は「人はなぜ人を欲するのか」「なんで一人で生きられないのか」(アサミさん)。自分の方の問いも尋ねられたので、しばらく考え、「なぜいまはいまなのか」。

 結局「なぜいまはいまなのか」で30分以上話したろうか。その内容も書くべきかな。なるたけ簡単に。「これってどういう意味?」「2018年が今で、2008年は今じゃない、どうして2018年が今なんでしょう」。「時間が動くから、2008年は今じゃなくなった、ってことじゃない?」「「時間が動く」ってどういうことでしょうね?」「現在のインプットがある。それは過去になる。人は新しいものを求めているから、次々に新しいのが来る」「いま言ったことって三つの別のことでしょうか、例えば、現在のインプットだけがあって、新しいものが来ないというのは考えられますかね? あと、求めてるから新しいのが来るんですかね、求めなくても来る気はしませんか?」「待って、そもそもの問いが何だっけ、うーん、なぜ今か、今を生きるのが人間だから、じゃダメかなぁ」「過去に生きるとかってありうるんですかね?」…「わかんない、むずかしい。でも楽しいかも」。頃合いを見て、「この辺にしときましょうか」。

 最後別れる際「楽しかったよ」と言ってもらえたので、「お気持ち」の方もお願いしてみる。小銭を入れてもらう。やた。

 終わってボーっとして、吉野家へカレーを食べに。

 その後ハチ公前の辺で何人か声をかける。座っていた男性は拒否。若い女性二人から「ハチ公前のトイレはなぜくさいのか」。「そういう問いもいろいろ考えられると思いますよ」と言ったけど、問いをもらうだけで終わり。マシュマロ渡す。若い男性(コバヤシユウさん)から「男女の友情関係はなぜ築かれないのか」「人はなぜ生まれたときから決まった成長をするのか」。マシュマロ渡す。さっきの女性たちも、いきなり問いと言われてもねえ、という反応はあり。コバヤシさんは、なんか願望みたいのになっちゃうなぁ、とも。フムフム。問いを作る、自分の中にある何かを問いの形にするというだけでも、一つの労力、一つの作業かもしれないもんな。

 あとはまた女子高生二人、だいぶ怪しまれてる様子で何もないです的反応。他に、お兄さんが謎です的な反応をもらった女性二人もいた。「はは、そうですよね」。(でもこれも実はちゃんと問いにしてもらうこともできたのか。「なぜ路上で声かけるのか」「路上で声かけるのはなぜ奇妙なのか」?)

 昼過ぎから初めて、そろそろ4時。雨もちょっと降ってきており、ああもう疲れたかなーということでボーっとして、じゃあ帰るかなと。また来てみたいと思えたら来てみるか、てな感じ。

 もらってスケッチブックに記入した「問い」は5名からもらった6、7個といったところ。声かけしたのは10人くらいか。

 収支。支出(道具、交通費、昼食)1338円。収入244円。差引、-1094円の利益!(笑)、と。

 *

 さて、あとは自由に振り返ってみる。

・どういう形式で行うか、いろいろ練る余地はありそう。とりあえず、問いをもらう、時間があれば一緒に考えてみる、でやってみた。

・もらった問いをスケッチブックに記入して「貯めていく」みたいなのは自然発生的にそうなった。問いを尋ねるのに「謎」という言葉を使ったが、どうなんだろう。「問い」の方がやはり普通かもしれない。

・こちらの問いを聞かれたり、他の人はどんな問いをという反応もあったりしたので、ここも考えどころかもしれない。お互いに問いを交換する、みたいな観点。交換の相手は、一つは自分と、もう一つは、自分が声をかける人同士の。

・声をかける人同士の横のつながりについて。実際一人かまあ二人連れくらいのグループに個別に声をかけるわけなので、通常は、その人たち同士の横のつながりは、ない。スケッチブックを見せるという仕方で、前の人の出した問いを見せることはできる。でもそれだとかなり限られた感じ。

・今回は結局お一人くらいだけど、問いをもらった後の、対話における個別性(つながりのなさ)も。哲学カフェなら、多人数の多様な観点が出てきうるけど、やはり一対一の対話になりそうで、そこでどの程度柔軟に応答できるかという…。いやもちろん、「柔軟に」応答するのが望ましいかどうかという点から、考えうるけど。

・場を作る、横のつながりを作る、という点で、ネットの利用は考えられる。ブログとか、SNSとか。それらの存在を路上での話題の中に最初から組み込めるとしたら、また違うかもしれない。あとはもっとyoutubeとか。路上哲学チャンネル、でyoutuberデビュー(笑)。一人だとむずかしいような気がするな、カメラマンさんが必要そうだよなー

・自分の問いを持っていく、それを問いかけてみる、というのも考えるに値する点。そもそもの、自分が哲学をすることや、人と哲学対話をすること、それらの意味に関わる点。

投げ銭はどうなのかなー。せっかく「楽しかったよ」と言ってもらえたのに、お願いまでしてしまって、悪くなかったかしら。改めまして、アサミさん、ありがとうございました。

・銭の話に戻せば、何となくそういうゲンキンな回路を持っておく方がよいような気もする。永井均先生もツイッターでそんなことを言っていた。「要するに、哲学対話のようなことをする人が金銭的価値を超えた何か特別に大切なことをしていると思い込まないことが大事、ということです。」(@hitoshinagai1) https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1034240764014784512

・コバヤシさん(その他の方も)の、いきなり問いと言われてもなぁ、願望みたいになっちゃうかも、という反応も、一つ考えうる点かも。普段から問いを抱いているという場合は少ないかもしれず、問いの形にするというのはそれだけで一つの労力、一つの作業かもしれないわけだ。とすると、そこで「問い」の形にするということにこだわるのがいいのか、そうでないのか。「問い」の形にするのは哲学に必須の作業だろうか。

・あとは何と言っても、多くの人に声をかけること、それだけでパワーがいる。友人から、公共空間ではお互いに無視し合うマナーがあるのでは、という指摘をもらったけど、そうじゃないかと思う。(社会学で「儀礼的無関心」という用語がある。)そのマナーを破るところに、パワーがいるんだろうし、またここには「暴力性」みたいなのも考えうるんだと思う。しかしまあ、もともとそういうことへの関心も自分の中に含まれていてのことだけど。

・ちょっと敷衍してみたい。哲学カフェ等の哲学対話の活動は、そもそもが学校・大学(アカデミズム)等の権威の相対化の運動だったかもしれない。では、哲学カフェでは権威が無になるかと言えば、たぶんそんなことはなく、いかなるものであれ、集団を組織することには必然的に働く権威性みたいのがあるんじゃないだろうか。そこででは、路上みたいなところだったらどうか。そこは何の権威の介在もなく、個人と個人が裸で出会うところだろうか。
 裸の出会いとは何かということも問題だけど、それは措いておくとして、路上が裸の出会いかといったら、たぶんそうじゃない。そこは公共空間で、様々な力(権力)によって秩序が保たれているように思われる。無秩序の例としては、極端かもしれないけど、さりとて典型でもあろうものとしては、犯罪がある。そこまでいかずとも、まあ通常のレベルにも、儀礼的な、マナーとしての無関心があり、そこを破るのは、ある種の無秩序や暴力性でもありうるだろう。
 さて、一方に権威性の高まりがあって、もう一方に権威性の低まり、無秩序・暴力性みたいのがある。こんな感じの力学をどうなってるのか見てみたい、みたいな関心もありました。そしてもちろんこの中で「哲学」というのがどうなるのか、どう働きうるか、みたいな。

・と、こんな関心もあったりしたので、あとまあ普通に哲学対話の仲間・先達として、哲学カフェとかも参考にしたいところかもしれない。自分でやるのも含め、視野に入れたい。上で言ってた場作りとも関連する。路上とカフェの両輪とかもありかもしれない。ただまあここでは、上でも少し触れた「自分の問い」との関連も忘れたくないところだ。

・(この項は後から編集にて補足)実際の路上活動では、まあ慣れていないということもあるだろうけど、圧倒的な情報量に晒される感じがある。そんな中で哲学対話だったり、上記のような関心を持って、自分の関心に関わる情報にフォーカスするのは、かなりの技術というかを要する気がする。ここら辺は、「前線」を退いた後の「銃後」における作戦の練りどころだろうな。ただでもその、圧倒的な情報量におけるところの、即興性、これもきっと醍醐味にちがいない。

・後半、長く話し終えた後に、声を張ることがむずかしくなったかも。のどパワー。

・あと、発展形として、土地柄の選別とか。とりあえず渋谷はいっぱい人もいるし、ヒマしてる人もいそうと思ったので(あとまあアクセスがいいので)行ったけど、そこはいろいろ試す・味わう余地がありそうだ。

 さて、全然まとまった感じじゃないけど、とりあえず。次回はあるのかなー笑

結婚

 結婚しました。ブログの更新が滞っていたのですが、結婚について、書きたいなと思う気持ちもあり、でも何を書くか、書けない気持ちもあり、たぶんそんなのが理由の一つです。

 さて、かねてから交際していた恋人と結婚したわけですが、結婚ということで、一緒に生活を始めました。共有する時間が増えることで、当然、互いへの知見も増えます。

 そんな中で一つ、信じたくなっちゃうのが、「全てのことが発見に満ちている」ということ。これは、「信じていること」ではなく、「信じたいこと」でもちょっとなく、一番正確そうなのが「信じてしまいそうになること」。

 さて、もちろん、そんな時ばかりではないのです。「きっとどこかに発見がある」、そんな“意味づけ”が何も働かないような、そんな気がする時もやって来る。辛抱の時。それを越えて、“意味”を見出した(ように思えた)時の喜び。

 というわけで、さまざまな発見や熟成の日々を過ごしていたために、そしてそんな発見を言葉にする暇もなかったために、の、停滞だったかもしれないのですが、しかしまた、その、言葉にすることのできない、あるいは言葉にすることが追いつかない、そんな発見ということ。

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 以前に天理教バーをやったイベントバーエデンの店長宮内さんが、イスラムの信仰の半分は結婚にある、と言っていたことがありました。あと半分は何かたぶん単に聞いてないですが、ともあれ、これはちょっとふんふんと思うものがあった。上のことを考えたときに、ふと思い出した。

 性と生殖。人間の、身体、あるいは、自然に根付く側面。自然は、それを言葉で把握することもできるが、しかし、言葉とは独立に、それ自体で存在し、それ自体の動きを持つもの。精神は、なぜかそれに根付いてもいる。一方で、精神のもう一つの領域としての言葉の領域。

 人間社会を、動植物の生態系のようなものとして眺めることができるんじゃないか、と思ったことがありました。倫理的生態系の学、と呼んだりして。人間社会の構造、その本質の洞察。「全体」への視座。もしかすると、これは、宗教的なビジョンかもしれないな、と思ったりします。いやたぶん公正に言おうとするなら、宗教的とは限らず、非宗教的なそうしたビジョンもあるのでしょうが、また宗教は単に歴史的にそれ(ビジョンの提示)を担うことがあっただけなどと言うこともできるのかもしれませんが、個人的な感懐としては、それ(「全体」への視座を提供すること)は宗教的なことだよな、と思うものがあります。

 宗教とは何か。それがまず第一義的に「真理」に関する事柄であるなら、その「真理」とは、先に述べた「全体」(への視座)に関わるものに思えます。しかし、その「真理」は、事の本性上、その確然的な証明がありえないような真理なのだろうと思われます。であるがゆえに、それは「語りえない」事柄に属す。

 ここで、先ほどの、性と生殖、あるいは結婚、そこにまつわってあるように思われた「発見」、それが「語りえない」こと、そのこととつながってくるように、思われる。いわば二つの「語りえなさ」がある。それらを対照的に考えるとすると、いわば、上への語りえなさと、下への語りえなさ。神の事柄は、上に語りえなく、そして、何と言うのか、身体・自然(精神の自然的側面)の事柄は、下に語りえない。

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 先に「信じてしまいそうになる」と呼んだのは、「全て発見に満ちている」という事柄でした。さて、これは、「信仰」に似ていないか。「発見」という“意味”を信じること。これが「信仰」であるとすれば、そこにおける「無信仰」もまたあるのではないか。とすればそれは何か。

 上への信仰と、下への信仰。上への信仰における「無信仰」は、世界「全体」の意味を信じないことだろうか。とすると、下の信仰における「無信仰」は。「生活」の意味を信じないこと? 「愛」の意味、「愛」を信じないこと?

 私は、信仰したいというよりは、信仰について知りたいと思っていて、つまり信仰について哲学したい、と思っている。それで、信仰についてと同時に、無信仰についても知りたいと思っている。では、愛についてはどうだろうか。私は、愛したいというよりは、愛について知りたいと思っていて、つまり愛について哲学したい、と思っているだろうか。(だから同様に、愛の無さについても知りたいと思っているだろうか。)愛することと、愛について知ることは、同じことだろうか。それとも、ここで比べるべきは、愛することと、知りたいと思うこと、つまり知ることを愛すること、だから哲学すること、それらのことだろうか。

 いやしかし、愛したいということと、愛することは、違うだろう。それでもちろん、信仰したいと、信仰する、も。愛したいなんて言ってる間に愛せばいいじゃん、て感じがする。「愛されるよりも~愛したいマジで~」という流行歌の歌詞が思い浮かんだ。マジでそうだよね~ワライ

 ・

 性的な快楽が何であるのか、なぜそれが快楽であるのか、このことは「語りえない」事柄に属すのではないか、と思うことがある。より一般的に言うなら、つまり、身体、精神の自然的側面における事柄。だから同様に、例えば、食の快楽についても。もちろん、美食的批評的な「語り」がその「何であるか」を解きほぐしていこうとすることも、可能ではある。しかし、どこまでも降りて行けることと、一番下に達することができることは、違う。いやこう言うべきかもしれない。そこでは、「語り」になりうるような「理由」は底をついてしまう。「理由」が底をついて、それ以上に知りたいと思う「理由」を提供できない。(ここでは、あの、「規則のパラドックス」が連想される。ウィトゲンシュタインはこの底つきを「岩盤で鋤がそり返る」と表現している。)
 ――下への語りえなさ。

 宗教については、その、人間社会的、組織的、制度的な側面も気になる。倫理的生態系の学、と言ったが、ビジョンを提供するものも、そのような生態系の一部でもある。生態系の中で、ビジョンを提供するという役割を担うもの。宗教に喜びがあるとすれば、それはやはり第一にはビジョンの「真理」の喜びで、それはビジョンの比喩をそのまま通して言うなら、見る喜び。(宮内さんがブログで、宗教・信仰の喜びの第一を「真理」にあるとして挙げていたと思う。これも示唆的だった。)
 さてでは、見る喜びだけでなく、行う喜びもあるだろうか。もちろん、そうなんだと思う。(ここでは、宗教、その社会的側面、について考えている。)「弱く虐げられた者に仕えること」だったか、そんな言葉を聞いたことがある。それもそうなんだろう。しかしたぶんそれは、ビジョンに裏打ちされてこそ、という側面もあるだろう。
 配偶者との生。これが信仰の半分なのだとすれば、どうか。もちろんそれが行う喜びであるなら、良いだろう。しかしこの「近さ」においては、おそらくはそれより遠くにいる「弱い者」に対するよりも、より、ビジョンなどなしにできるものがありそうではないだろうか。自然に赴くままに、などと、単純には言えそうなもの。
 ――「見る」に比しての「行う」。「近さ」と「遠さ」。

 「全体」のビジョンと、そうでない、あるいは盲目的にも見える、ミクロな、この単なる「見え」、そういう意味での小さな、極小のビジョン、その二つの、極大と極小のビジョンが、何らか、相即すること。これは何か、ありそうなことに思えて、しまう。これは信仰的なことだろうか。〈私〉が〈世界〉(「全体」)につながること。ここに「信仰」があるとすれば、先に「信仰」について言ったこと、全体への視座、特に全体の“意味”ということと、これは、どう関係するか。
 また、これがその信仰の「ある」ことなら、その「ない」こととはどういうことだろうか。それが無信仰ということだろうか。
 ――〈私〉と〈世界〉。“意味”。……

 *

 というわけで、妻に。これからもよろしくね♡