Hajime notes

謎を食べて生きる

父の5年忌に際して

 一度、同じタイトルの文章をアップしたのですが、どうにも長大なものになってしまい、なんとなく座りも悪く、書き直すことにします。長大になってしまったのは、いろいろ関連して思いつくことをそのまま書いていたからですが、タイトルが表すことの、元々の趣意を省みれば、たぶんそんなに大層なものではないような気もして。(以前の記事は、タイトルを変えておくことにします。迷いましたが、そのまま残しておこうかと思います。)

 *

 実家の教会のこと、そして、父のことについて、いろいろ考えてきました。父はがんで亡くなったのですが、その前後、そして、亡くなってから。

 父の「体罰」のこと。教会の「住込みさん」のこと。「人だすけ」のこと。そこにあるように思われた「暴力」という問題のこと。それらについて自分に「悲しみ」(あるいは怒り)があって、それを表すことができなかったこと。

 それらのいちいちについて、考えていくことは、おそらくこれからもまだ自分の中では引き続き続いていく気がするのですが、おそらくそれをこのような仕方で「書く」ということについては、「もういいや」という感じが強いのです。

 *

 前回書いた文章について、その主旨だけを抜き出す感じで、振り返ってみたいと思います:

 自分の「悲しみ」は、そうした上で書いたような物事に関してあったと思うのですが、それは最終的には「信仰」ないし「父の信仰」というものの中で考えられるものになる気がします。「信仰」や父という一個人にあった信仰というものを考えるとき、それは最終的に、その「何であるか」が「開かれたもの」である、そのようなものである感じがする。そして、それは、おそらく、私自身のこれからの「コミットメント」がどこにあるかということを抜きにしては語れないのではないか。自分自身のコミットメント、これを私自身の信仰と言い換えることもできるかもしれませんが、それとの関連で、と言うとき、一つあるのは、「私の信仰」と「父の信仰」が異なるということ。これはある意味では当たり前過ぎることかもしれないのですが、ここに、「自立」ということ、それゆえの「別れ」ということ、そしてそれゆえの「悲しみ」があるということ。このときの「悲しみ」は、以前の、「父の信仰」に対する「悲しみ」とは異なります。言うなれば、過去向きの悲しみではなく、別れて別の道を行くという、未来向きの悲しみというか。

 私を実地に知る方々に聞かれることを思うと、何となく、「自立」だなんて、いまさらそんなことを、と、恥ずかしく思う気持ちも湧きそうです。しかし、それが、私の現在なのかもしれません。

 *

 「もはや「何」でもない」という言葉を、前の文章では使っていました。

 それは一つ、過去の悲しみは、もはや何でもないものになろうとしつつある、ということ。もちろん無に帰したということでなく、歳月が、感情から、その衝迫する力を抜き去っていった、そのような意味です。

 また一つは、自分自身のコミットメント――上ではそれを「信仰」と言い換えてみましたが――というものを考えるとき、それがいまだ何ものでもない、形のないものであるということ。ここでは「もはや」ではなく、「いまだ」なのですが、それでも、過去向きの悲しみが未来向きのものに変わった、そのような意味で、もはや「いまだ何ものでもない」ものへと変わった、わけです。

 最後に。前回の文章の最後で、「存在することそのものへの悲しみ」について、書いていました。それは、そのように言ってしまうこともが「不純」でありうるような、それほど、「何」とも言えない、「透明」なものである感じが、あります。自分としては、ここに「哲学」を向けたい。この水準に、照準を合わせたい。この水準に照準を向けて、哲学したい。そのような感じがあります。

 「何である」とも言えないような、そうした透明な「かなしみ」に照準を合わせて、このこともまた、「もはや「何」でもない」ということなのだ、と思えるわけでした。

 *

 父に。冥福を祈ります。元気でやってます、それなりに。どうぞこれからも、家族共々、見守っていてください。