Hajime notes

謎を食べて生きる

(モラル・)ハラスメントについて

 以下は、長大なエアリプ(宛先を指定せずに念頭にある誰かに向けて書くこと)のような感じです。

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 なんとかハラスメントというのが、たくさんありますね。セクシュアル、パワー、アカデミック、…なんか考えようと思ったら無数にあるみたいにも思えますけど、とりあえずいちばん有名なのはセクハラでしょうか。(あんまりいろいろ考え過ぎるのもそれはそれで問題みたいなことも、もしかしたらあるのかも。どなたかが「硬直したポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)的問題」とか言ってたのを聞いた(読んだ)ことありますが…)

 その中の一つに、モラル・ハラスメントモラハラ)というのがあるらしいです。どういうアレか、ちょっと難しいようにも思いますけど、おそらくこうかなと思うのは、まあつまり、「モラル」=ある種の「美徳」、を盾に、嫌がらせや人格攻撃をしてくるということみたいです。いわゆる「精神的」な嫌がらせだと思いますけど、「言葉の暴力」なんて言葉もありますけど、場合によってはこの「破壊力」は凄まじいみたいですよ。「人格攻撃」と書きましたけど、その期間や程度によっては、「人格破壊」にも至りうるもののようです。

 「ハラスメント」というのは、そこにある種の「不正」を読み取るということじゃないかと思います。
 「不正」ということで考えるとすると、ここからはとりあえず自分の考えですが、不正を為す人(いわゆる「悪人」でしょうか)がなぜ不正を為すのかについて、大別すれば、とりあえず二つに分けられるかなと思います。
 一つは「愚かさ」から来るもの。それが「不正」であるとは知らずに為している場合です。それが「不正」であることがわかってないということにおいて、その人は「愚か」なわけです。
 もう一つは、「悪意」から来るもの。「不正」であることを知りつつ為すという場合。
 この大別的区別の基準は、不正を為す当人が「不正」であることを知っている(→悪意)か知らない(→愚か)か、ということで押さえてもらえればいいと思います。

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 世の中に「不正」というのが現にあって、そして、それを為す「愚か」な人や、「悪意」のある人が、現にいる、ということ、このことを知らない人もいるみたいです。たぶん、「子供」はそういうことを知らないかもしれませんね。(という意味で「子供」は下で言う「聖人」に似てるんだと思います。)――あとまあ、こうしたことを知るのは「世知辛い」ことかもしれなく、そういう意味で、「知らない方がいいことだ」という考えもありえそう(「世間知らず」肯定主義?)。だけど、これはまたちょっと違う話になってくるでしょうか。――
 ともあれ、と言いつつも、究極を考えれば、「不正」はありうるのか、「愚かさ」や「悪意」はありうるのか、という問いは立てられうる、とは思います。「全くの狂人」でなければ、どんな人にも最低限の「理性」は備わっていて、その限り「愚か」ではないし、また「悪意」なんてものもありえず、その人なりの何らかの「善意」によってなされていて、それが今のところ見えないだけだ、という考えになるでしょうか。
 こう考えるのは、「絶対不可能」ではないのでは、とも思いますけど、しかし、あまりにこのような考えに傾き過ぎるのも、どうかとも思います。それは「普通の人間」にできることではないのでは、という。何となく、それはある種の「聖人」にのみ可能なことで、そういう意味で「宗教的」な感じすらします。
 あとはまあ上で「全くの狂人」と述べましたけど、そういうものを認めて、「人間」である限り完全に全ての人が何らかの意味で「まとも」であると考えないのであれば、やはり、「愚かさ」や「悪意」があるということを認めることになるのでは、と思います。

 と書いてちょっと思いましたが、世の中にそういうものがあるということは知っているけど、まさか自分がそれに遭遇するとは、自分の目の前に出会っている人がそういう人だとは信じられない、こういう場合の方が普通なのかな、とも思いました。(世の中にいろいろな種類の病気・難病があることを知ってはいるけど、まさか自分や自分の近しい人がそうなることを信じられない、というのは普通のことかもしれなく、これに似ているかもしれませんね。)
 なんで、「聖人」にでもなるつもりでもなければ、やはり、出会っている「その人」が、「不正」を為していること、その意味で「愚か」であるか、あるいは「悪意」のある人であるということ、このことを「よく自分に言い聞かせる」ことが、この場合必要になるのかな、と思います。

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 モラハラの話と、その次の「愚かさ」や「悪意」があることを知らないという話と、あまり考えずに順に述べましたが、これらは関係するのではないかなとも思えてきました。
 まあ「宗教的」な「聖人」レベルまでいかなくても、たいていの人は、一緒にいる人がとりあえずはある程度まともであることを前提にその人と付き合う、それが普通かもしれませんよね。ただもしかしたら、人によって、「愚かさ」や「悪意」への感度に程度差があるかもしれず――あるいは状況によってそれらの存在が隠蔽されて、「わかりにくく」されることもあるかもしれません――、モラハラをするモラル・ハラッサーはそれを「利用する」のかもしれません。
 その状況は、ある種の「美徳」=「モラル」を盾にできる状況なんだと思います。上で言ったのだと、「とりあえず「まとも」と見なす」、という「モラル」でしょうか。

 モラル・ハラスメントに関しては、イルゴイエンヌという人が、その概念の提唱者みたいです。その著書で、モラハラの代表的な現場として、「家庭」と「職場」が挙げられているみたいです。 
 このどちらも、ある種の「美徳」=「モラル」が機能する場だということかもしれませんね。「家庭」なら「いい夫」ないし「いい妻」あるいは「いい子供」「職場」ならその職務に対する「真面目さ」、ごく簡単に言うならこういう感じでしょうか。
 こういう「モラル」が逆に「盾に取られ」ちゃうんですね。(まあなぜそのようなことが起こりうるのか、とりあえずは「悲しい現実」とでも呼ぶしかないんでしょうか。)その「盾」に隠れて、その陰から、攻撃を仕掛けてくるということだと思います。言ったように、これは本人が意図せずほぼ癖のような感じで為す、その限り病的とも言えるような、「愚かさ」から為される場合もあるし、そして「悪意」から為される場合もあるということだと思います。
 ――しかし、おそらくは、「愚かさ」と「悪意」の両方が渾然一体となっているということも、おうおうにして、ありそうに思います。その渾然一体が「愚か」であるとも言えると思いますし、また、だからこの場合そこにはすでに「悪意」も含まれているということにもなると思います。

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 さて、ややつらつらと述べてしまいましたが、何が言いたかったか。
 簡単に言うなら、「不正」はあるんだから、「愚か」な人や「悪意」のある人は居るんだから、そういう存在はどこかで「切り捨てる」べきなのでは、ということでしょうか。(その場合、心理的、物理的、経済的等、様々な「関係」に対する「切り捨て」がありうるのではと思います。)
 対処法の大別としては、「逃げる」か、「闘う」か、だと思いますが、このどちらもそれぞれの仕方での「切り捨て」だと思います。(でも、「闘う」の方は、ある種の「関わり」ですね。)
 「愚かさ」や「悪意」を切って捨てずに、果敢に立ち向かい、あまつさえ「救済」さえする、そんな「宗教家」や「革命家」になるつもりがあるなら、別だと思いますけどね。ただもちろん、実際は、例えば宗教家としても、その「切り捨て」をうまく駆使しながらやるんだと思います。しょせん有限な力しか持たない人間なので
 この場合は「関係」の切り捨てですが、「捨てる」ということも大事な、きっと奥の深いことなんでしょうね。(仏教の「智慧」とはつまり「捨てる」のことだという考えもできるみたい。ソースは…とりあえずは、私(笑))
 学んでいきたいですね。

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 あ、最後に。自分が「モラハラ」の本(さっきのイルゴイエンヌさんの、その前には女性装の安冨歩さんの関連だったかな)を読んだのは、それが「教会」におけるある種の「問題」に関わりがありうるかなというのが、一つの動機でした。「教会」もある種の「美徳」=「モラル」が機能する場所だと思うので、その限り、まあそんなに外してはいないじゃないかなと今でも思っています。本来「よかれ」と思ってある場所なりが、悲惨を生むような場所になってしまうのは哀しいことだと思うので、ちゃんと考えられてよい問題ではないかなと思っています。

 

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【補足】タイトルに括弧を付けて(モラル・)とやっていたが、というのも、上記の話は、ハラスメント=嫌がらせ一般にも通じるのではないかと思う。
 「嫌がらせ」はおそらく、「敵対」ではない。それはおそらく、ある共同体、仲間内の中で為されるものなのではないだろうか。セクハラにしても、パワハラにしても。(他はどうかな。)
 共同体、仲間内の間で、ある「規範」が共有されていて、「嫌がらせ」はその規範を利用して――おそらく、表向きその規範に従いつつ、別の目的でそれを利用する――なされる。その限り、一種「卑劣さ」が付きまとうもののように思われる、が、どうだろう。
 共同体内・仲間内で行われるということが、共同体外・非仲間内(=敵)の間で行われる「敵対」や「闘争」とは異なるところ。「敵対関係」「闘争関係」において功績をなしたものは「英雄」として称えられるが、「卑劣」な「嫌がらせ」にはこうした賞賛の対象はないように思われる。

金メダルと銀メダルの話――怒りについて

 恋人がいます。彼女にはこれまで、いろいろな話を聞いてもらってきました。

 これまでも少し書いてきたように、実家の天理教教会のこと、父(そして母)との関係のことが、自分には、ずっと誰にも話せないで来たようなところがありました。

 もちろんこれは彼女との間においてもそうで、そのたびに「何も言えなく」なり、そのたびにやっと「口を開く」「心を開く」というプロセスが何度もありました。(周回的にやってくるその“鎖国”状態のことを「とじこもり」と呼んでました。)

 ということで、最近彼女と話したことで印象深く思えた話について書きます。金メダルと銀メダル(そして銅メダル)の話。

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 もともとは、たぶん、怒りについての話題でした。何か相手に伝えたいことがあるときに、怒りを交えずに語った方がよいよね、という話です。

 おそらく、理想を言えば、その通り、物事を伝えるときに怒りを交えずにした方がよい、のではないでしょうか。少なくとも、そういう言われ方をすることは多いように思います。

 私自身も、最初はその“理想論”に立った上で、話していました。そして、ときに怒りを交えて語った方がいいことがある、という考えがありそうだけど、それは間違いなんだと思う、ということを言っていました。

 恋人の方はそれに納得いかないものがあるようでした。なんとなれば――

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 ――でもさでもさ、怒っちゃいけないということを思い過ぎて、何にも話せなくなっちゃうということになるくらいだったら、怒りが交ざってしまうけどそれでも伝えるという方のがいいんじゃない?

 ――でも怒りを交えない方がいいことはいいんだよね?

 ――そうかもしれないけど…、交えない方がいい、かもしれないけど、絶対に交えちゃいけないわけじゃないんじゃないのかな。

 こう考えたらどう? 怒りを交えず冷静に話せたら金メダル。怒っちゃいけないと思って、でもそれで伝えることを伝えられなくなっちゃうのは、銅メダル。怒りが交ざっちゃうけど、でもそれで伝えることを伝えられるのは、銅よりはよいことで、銀メダル。

 ――にゃるほどー…、そっか、おれ、金メダルにこだわりすぎるトコがあって、それでいつも、てゆか何度も何度も、銅メダルだったもんね…。たしかにそうかも…

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 ということで、以前のエントリーにも書いたことがありますが、私は「自分の心を知る」とか、いやそれよりももっと手前かな、もっと単純に、「自分のしたいことを話す」「自分の感情を表に出す、表現する」ということが、けっこう、かなり(いや極度に?)苦手なところがあって、それは、金メダルにこだわりすぎるところがあるから、というのも、その一因になっているように思われたのでした。

 それでいつも、現に!これまで何度も、「銅メダル」=「とじこもり」だったのですが、それはホントに、ある一つのことについて、それが「言えない」と思うと、その他全てのことについても、もう何にも言えない、もう話なんて何もできない、(ひどいと、もう別れよ…という気分に、おそらく実際の「問題」はぜんぜん違うとこにあるのに)という状態になっていたのでした。

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 「怒り」ということで考えてみるなら、おそらくは、ちょっと難しいところもあるような問題かもしれません。

 怒りをぶつけても、黙っているよりはいいか、それとも、冷静になれずに怒りをぶつけてしまうよりは、黙っている方がいいか。

 「怒っちゃダメ」という言葉は、怒りを内側にためこんで内側を責めさせるようなものにもなりうるんだと思います。そのことがとっても「毒」な状態で、それよりはだったら怒りを出した方がいい、というのは、ぜんぜんありそうなことに思います。自分の経験をかんがみても。

 今回はここまでとしたいと思いますが、この問題って、自分の教会での経験のことを考えるときにも、かなり重要な問題そうな気がしています。(ちょっとだけ言ってみるなら、集団においては怒りを露わにすることよりも、ただ黙って従う方がよいとされる場合があって、そのことが実は怒りのエネルギーを内側にためこませてしまって、というような…)

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 黙っているのと怒りをあらわにするのと、どっちがいい?

 黙っているより、怒りをあらわにした方がいいときもあるんじゃないかしら?

 てな話でした。

「勉強なんかできなくてもいい」について

 ツイッターで、天理教関係のフォロー・フォロワー関係の方々と、「勉強なんかしなくてもいい」「勉強なんかできなくてもいい」――両者は微妙に異なる――ということについて、話を交わさせていただいた。
 元々は、教会関係者が、特に権威関係にある上の者が下の者に対して「勉強なんかしなくてもいい」と言うのは問題があるだろうという文脈であった。それに対して私は、父が生前に言っていた「勉強なんかできなくてもいい」という言葉を想起し、引用リツイートでそのことを述べたのだった。
 「天理教について」の後に書いた「母と話す、二つの症候について」という文章で、そのことは少し触れた。父の「勉強なんかできなくてもいい」という言葉に、ごく最近まで、ないしは現在進行形でも、縛られていた(いる)ものを感じる、と。

 このことを、「哲学」と関連させて述べたい。というか、というのも、私の場合、「勉強」云々というのは、おそらく最も本質的には、「哲学」に関することであるだろうと思われる。

 哲学対話の会でお話したことのあるおがぢさんが、ブログを書いておられる。(学校で哲学対話をするとやっぱり色々難しいことに出会います、という話 - あなたとわたしのこどもてつがく(仮))哲学対話を学校に持ち込むことが、学校の生徒たちの普段の人間関係にとって、是か非か、という問題。「哲学対話以外の多くの普通の学校の時間を生きている生徒や学生にとっては、問題だけ残して去っていく哲学対話の教員は悪魔のように映るかもしれない。」とある。

 哲学の目指す「真理探求」には、そのようなところが不可避的にあるのではないか、と思える。哲学対話において「人格攻撃はいけない」というルールが設定されるべきという見解があるが、一つの観点からごく単純に述べるなら、人格攻撃がいけないのは人格攻撃であるからではなく、それが真理探求に資さないということが対話の中で見出されることによって、対話によって自ずと排除される、というふうであるべきである――なぜなら、真理探求はまさに真理探求のみによって営まれるべきであって、そこにそれ以外のものを持ちこむべきではないから――、と考えられる。

 しかし、この考えがこのままでは単純に過ぎるとも思われるのは、ではもし人格攻撃が真理探求に資するのであるとすればどうか、と考えてみるべきだからだろう。(もちろん、そのような真理があるとすれば、驚くべきことのようにも思われるが。)

 そして、しかし、ある意味では、そのような「真理」はある(ありうる)のではないだろうか。
 というのは、一般的な仕方で述べれば、問題となる事柄について、その個別的な事情と一般的な事情が切り離しがたく結びついているような、そういう事柄の場合。

 もちろんすぐ私の念頭に浮かぶのは「信仰」であるが、私は信仰に関しても哲学しようとしており、そして、それは私の個人的な事柄と切り離しがたく結びついているのではないかと考えており、私としては、そうした個人的な事柄をも俎上に載せて考えていかなくてはならないのではないか、ととりあえず考えている。

 「学校での哲学対話」に話を戻して言えば、たしかに、そうした「分かちがたい」事柄に関して、話をすることが、たとえそれが真理探求だけを理念にした「哲学的」な「対話的」な話し合いであったとしても、「耐え難い」ような場合はあるかもしれないな、と思う。そしてこの文脈では、対話への「自由参加」が保たれていることは必要かもしれないな、と思う。

 「勉強」に関しては、それは一般的に言えば、「教育」の問題であろう。

 父の言葉が私にとって縛りとして働きうるような、容易に解きがたい問題を投げかけるがごときものであるのは、それが、言うなれば「貧困支援」の文脈と絡んで語られたものだったということがある。(これは、天理教の言葉で言えば「おたすけ」「人だすけ」であるが、というよりはむしろ、父の念頭にあったのはそういうことであったろうが、もちろんこれを「貧困支援」と言い換えてしまってよいかという問題はある。)

 言ってみれば、「貧困」とは「教育」の機会を受けられないことの貧困、機会への貧困でもある、ということ。

 その機会を得るのは、究極的には、「運」とでも呼べるものによって左右されるのではないだろうか。

 だからもちろん、その「運」を、幸運にも得ることができた(できる)者は、それを大いに活用すればよい。(フォロワーさんとのやりとりから出てきた言葉で言えば、そこに何ら「罪悪感」は必要ないはずである。)

 しかし、ここで、私の場合、「哲学」が関わってくるかもしれない。というのは、哲学をどこまでもしようとするのであれば、哲学は、その「運」に関しても哲学しようとするのでなければならないのではないか? 哲学が、もし何らか「教育」の賜物であるとすれば、その「教育」を可能にしたものについても、哲学は問わなければならないのではないか。
 それゆえ哲学は、そこで、「運のなさ」「不運」についても考えなければならなくなる。もし私がそういう「運」のない者で、「教育」を受けることもできないのであれば、そのときに私の「哲学する」ことはどういうことになるか? ということを問わなければならなくなる。これは、いわば、「運のない」場所に身を置いてみるということ。

 このことが、「哲学」にとって、ある場合には「自己破壊的」にも作用しうるのではないだろうか。
 何となれば、極端化して言ってみれば、「哲学する」ことは、「哲学しない」ことをもその身に引き受けてみなければならない。

 つまりは、私にとって、父の「勉強なんかできなくてもいい」という言葉は、最も根底的にはこの部分に残響として残るのだろうと思う。つまり、「勉強なんかできなくてもいい」は、「哲学なんかできなくてもいい」や「哲学なんかしなくていい」へと、そしてこれが最も極端化すると、「哲学などしてはならない」として。

 さて、その「自己破壊」から、いかにして抜け出しうるか。
 それはおそらく、その自己破壊の機序(メカニズム)をも、上で試みたように、語り尽くしてしまうことによって、だからつまり、それについても哲学することによって、ではないだろうか。
 というよりも、私は、実際にそのようにして――つまり哲学することによって――、そのような「自己破壊的」「自己否定的」なものを少なからず乗り越えてきたような感がある。

 「語ること」が不可能に思える何かがあったときに、その「語ることを不可能にさせるような何か」についても語ることによって、その「語りえなさ」を語ってしまうこと。

 「語り」にはそれができるような力があるということ。そして、この反対の側面には、「語り」にできるのはせいぜいその程度でしかないということもあると思われる。「語りえなさ」のその所以について何がしかのことを「語れる」ということは、その最初のものが「語りえないものでなくなる」ということではないだろうから。

 おそらくここにも微妙な問題はあるのだろう。語りえなさの所以について語ることと、端的な沈黙は異なるだろうから。

 私は、哲学徒として、「端的な沈黙」を破ろうとしている。そしてそのこと自体が「悪魔のよう」なこと、かもしれないという思いもときに湧いて来る。なぜか。(なぜだろうか?)

 それなのになぜそうしようとするのか? ――ここにあらかじめ保証された弁明の余地など何もないのではないだろうか。

 哲学の先輩の言葉「この道がどこに続くかと問うな。ただ歩め」を思い出すが、これも何ら「保証」では断じてありえず、せいぜい単なる「道標」に過ぎないのだろう。

 最後に、哲学において、私は自分の問題として、「言語は不可能である」という類の哲学的懐疑論に魅かれている(もちろん、その定式化は精確ではない。というよりは、より精確には、そう定式化することが果たして仮にも可能であるかどうかが当の問題(の一部)となるような類の問題である)。これは、その「自己破壊性」において、一つの極点にあるようなものに思われる。

 それと同時に、私は、上でも述べたように、「信仰」に関しても哲学しようとしているが、このこと――おそらく、信仰ではなく、信仰について哲学すること――は、上のような「自己破壊性」と軌を一にするような感がある。

 ここに何か通底するものがあるのではないかと睨んでいるのだが、これはまだ直感に過ぎない。